せすにっき

日記。2019年1月にはてなダイアリーから引っ越しました。2024年もそこそこ適当に生きたい。

星の王女さま

彼女の訃報は、僕が突発の仕事で地方を走り回っている間に届いていた。帰宅して一息つき、留守番電話に連絡が入っていることにようやく気づいたときにはもう全てが片付いてしまっていた。
年末に会った時のことを思い出していた。
彼女は昨年、恋人を亡くしていた。その時既に彼女の中から何かが抜け落ちてしまっていたのだろうが、高校の頃から密かに片思いをしていた僕を含め、周囲は全く気づくことがなかった。立ち直っていたはずの彼女の言動に違和感を覚えたその時には手遅れだったのだ。
最後に会った彼女はとても幸福そうだった。慰めているうちにもしかしたら自分の存在に気づいてくれるかもしれないという淡い期待を抱いて誘い出した僕に向かって、彼女は語った。最近、毎日街を歩くのが楽しくてしかたがない。人ごみの中などはもう、ゾクゾクしそうなくらいだと。
それはなぜかと問うと、彼がいるから、という答えだった。
彼と同じ眼鏡をかけている人がいる。彼と同じ場所にほくろのある人がいる。彼と同じ形のリュックを背負った人がいる。彼と同じように階段を一段抜かしで駆け上がる人がいる。あの人は身長も違うし、この人は年齢がまったく合わない。しかしながらひとつだけでも彼と似たところがあれば、他には一切合財何の類似点も持たない人であろうと、それだけでもう、見知らぬ人の群れの中から彼を見つけ出したような気がして、嬉しさでいっぱいになるのだと彼女は言った。目の前の子連れの女性はあの機種の携帯電話を鞄から取り出したし、今すれ違った初老の男性の口からは耳慣れた関西弁が聞こえてきた。あそこにいる学生はタバコを吸いに喫煙スペースに歩いていくところだ。彼がかつてそうしていたように。
どうして今まで気づかなかったんだろう、道行く人たちの誰の姿を見ても、彼がそこにいるような懐かしい感じがする。ということは、不運にも脇見運転の車に撥ねられてこの世から居なくなったとばかり思っていた彼は、どういうわけだかこの地上の一人ひとりの中にスルリと入りこんで、そのまま内包されてしまったと考えるのが一番自然な気がする。なんだ、お骨になってお墓に納まったというのは嘘だったのだ。まだいるじゃない。しかもこんなにたくさん。いたるところに。
といったことを、彼女が目を輝かせて一気にまくしたてたので、僕は戸惑った。本気なのか、それともいつもの夢見がちな冗談なのか区別がつかなかったからだ。冗談にしても、僕からすれば決して笑えるものではなかった。
あれに似ているな、と有名な童話を思い出していた。星の王子さまとやらが旅立ったあと、残された主人公は星空に耳を傾けるようになった。5億の星が主人公の心に応じて鈴を振るような声で笑いかける。あるいはいっせいに泣き顔になる。最後の方にそんなくだりがあった。彼女はあの主人公のように星空を見る代わりに、街へ出かけては至るところに自分の恋人の姿を探し出し、それらがみな自分に微笑んでくれるのを楽しみにしていたのかもしれない。
コーヒーカップを両手で包み持ったまま陶然とする彼女は本当に幸せそうな顔をしていたので、僕は黙って話の続きを聞くしかなかった。自分が出る幕は少なくとも今のところ、全くないと悟ったからだった。
そして彼女はその後ほどなくして、雑居ビルの屋上から繁華街の舗道に落ちて死んでしまった。
週末のその時間、駅に通じる狭い路上は人で溢れかえっていて、巻き添えの怪我人が出なかったのは奇跡としか言いようがない、というのが現場処理にあたった警察官の感想だった。
泥酔した目撃者は「女の子が降ってきた」とへらへら笑いながら証言しただろうし、通りすがりに携帯電話で写真を撮っていく青年たちはみな無表情だったろう。道がふさがれていることに腹を立て舌打ちをして引き返そうとするサラリーマン、救急車のサイレンを聞いてわざわざ店を飛び出してきた居酒屋のバイト、現場をひと目見ようと背伸びしながら前の方へと押し寄せる学生のグループ、気分が悪いとしゃがみこむ合コン帰りのOL、そんな人たちで通りはますます混沌としていただろう。
酔うと陽気になって羽目を外すところが彼と同じ。写真を撮るのも大好きだったしね。ちょっと気が短くってイライラするとすぐ舌打ちが出ちゃうんだよね。そうそう、近所で火事があるとすぐ見に行っちゃうし。私の手を引いてどんどん近づいてって、お巡りさんに怒られたりしてね。でも割と臆病なところもあるの。ね? ああ、彼がいるよ。たくさんいるよ。みんな彼だ。嬉しい。
その夜の騒ぎの中、彼女の魂というか、意識というか、そういうものが肉体を離れてその場を漂っていたとしたら、やっぱりそんな風に人々を見ていたのだろう。夢見がちな彼女はきっと、たくさんの人たちの姿を借りたたくさんの彼にたくさんの腕で抱きとめてもらおうと、本当に幸せそうな満面の笑みを浮かべて飛んだのだ。
不思議なことにさほどショックは感じない。その代わり、今度は僕が彼女の姿を探す番なんだな、という気がしている。