せすにっき

日記。2019年1月にはてなダイアリーから引っ越しました。2024年もそこそこ適当に生きたい。

アベコウベ

おかしな風が吹いた夕刻だった。
夏の終わりに時々こういう日がある。ひところに比べずいぶんと暮れるのが早くなったとほの赤い空を眺めながら駅舎を出て小さなロータリーを抜けると、そこはこじんまりとした商店街だ。パン屋の店先のガラスケースには黄色くふかふかした蒸しパンが並んでいる。
それをぼんやり見ながら歩いていると、日暮れてきたからか、突然パン屋の白い看板に明かりがともった。白々として、そしてやけに眩しい。その光があまりにも入道雲の照り返しに似ていたから、わたしは思わず足を止めて見上げた。周りの建物の壁もぼんやりと白く浮かび上がっている。
そこだけが昼のようだった。吹き抜ける風を除けば、暑い暑い真夏の昼下がりのようだった。降り注ぐ光に熱をまったく感じないのにもかかわらず、わたしはその時肌をじりじりと焼かれるような錯覚を覚えた。
しかし驚いて天を見上げると、さっきよりも青みを増した夕方の空がある。
あべこべだな、と思った。涼しささえ感じさせるこの空気の中に、わざわざ夏の真昼が持ち込まれている。空は刻々と冷めていくのに、地上は眩しく、まぶたには蜃気楼のような残像が残る。これから夜が来るはずなのに、わたしの目の前には、突然昼が降ってきたのだ。
その逆転にめまいを覚え、わたしは踵を返して駅へと歩き出す。
今しがた上ってきた階段を今度は一段一段斜め下へと踏みしめて、ホームへ向かってゆく。が、そこを上ってきた部活帰りとおぼしき制服姿の男子生徒とあやうくぶつかりそうになる。目を合わせるいとまもなく、とっさに「すみません」の一言がわたしの口をつき、かれは舌打ちをしてわたしの脇をすり抜けていく。
あべこべだ。見上げると天井近くには「左側通行」と書かれた札が貼ってあり、わたしの歩いているルートが正しいことを示していた。あべこべだ。わたしがかれに謝ったにもかかわらず、かれはそんなわたしをまるで障害物であるかのように扱ったのだ。
やってきた電車にいつの間にか乗っていた。みずからの奇妙な行動に気づいてわたしは隣の駅で降りた。あべこべだ。わたしはあのパン屋の前を通って、家に帰るはずだったのだ。わたしを待っているはずの、あのからっぽの部屋に。いいや、部屋がわたしを待っている?そんなわけがない。わたしが一刻も早く部屋に帰りつくことを待ち望んでいるだけだ。あべ、こべ。
階段を上り、反対側のホームへ向かう。線路をまたぐ通路から夕空を眺めると心が落ち着いてくるような気がしたが、ここから引き返して家路に着けば、またあのあべこべの街の風景の中を通ることになる。あべこべ。あべ、こべ。
ちょうど前の電車がホームを去ったあとらしく、今度はわたしと同じようなスーツ姿の男たちが大量に、前方の視界に入ってきた。
この通路も左側通行だった。がしかし、左側を歩いていたわたしは、やはり何人かと正面からぶつかりそうになり、そのたびにわたしは軽く頭を下げた。短く言葉を返してくれる人もいたが、流れの中でもみくちゃにされる格好になったわたしに、その後姿は見えなかった。
やっとのことで階段を降りてホームにたどりついた。いつの間にか冷や汗がびっしょりと、シャツの後ろ襟を濡らしていた。ホーム裏の空き地ではコオロギが鳴き始めていたが、わたしは、真昼のようなどうしようもない熱さを、頭の中に感じていた。あべこべだ。
すがるような気持ちで空を見上げた。さっきよりますます深みを増した空は既に涼やかな群青色をしており、それなのにわたしの汗は止まらない。あべ、こべ。
頭の中の情景がめまぐるしく回り始めていた。天は地上に、地上は天に。あべ、こべ、あべ、こべ。きっとあのおかしな風のせいで、すべてがあべこべになっていくのだ。
ふと、自分がすでに地上の存在ではないような気がしてきた。
上を向いていることができなくなって立ったままうつむくと、ホームの白線を踏みしめる自分の両の靴が目に入った。次の列車は急行で、この駅を通過していく。明るい銀色の車体が暮れた空を切り裂いて流れ込んでくると、まるで動いているのはこの、今わたしが立っているプラットホームであって、電車はそびえる入道雲のようにそこに永遠にとどまっているかのように思えた。電車の脇を、わたしを乗せたプラットホームが轟音を立ててすり抜けていく。あべこべ、あべ、こべだ。
雷のような地響きを耳に残して急行列車は見えなくなってしまったが、わたしは、恐ろしい速さで夕暮れのなかを突き抜け移動していくプラットホームに、かろうじて足を踏みしめて立っていた。次の列車に乗れば家に帰れる、そう自分に言い聞かせてもめまいは止まらず、呼吸が荒くなっていた。
各駅停車が近づいてきた。ホームに近づき速度を落とす。いや、あべこべだ。ヘッドライトをともした入道雲に接近するホームが、その眩しさに怖気づいて速度を落としたのだ。
あべこべの世界から戻れるのは、今しかない。そう思ってわたしはめまいを振りはらい、どんどん近づいてくる大きな雲が動きを止めるのを待ちきれずに身を躍らせた。
だが、そんなわたしは今思えば、とんだ間違いをしてしまったのだ。わたしはそもそも、暮れ行く夏の終わりの空をいとおしく思いながら帰路を歩んでいたはずなのだ。あの駅前と同じ、もう去ってしまったはずの真夏の昼のようなあべこべの光の中に戻って、いったいなんになる。わたしのやったことも、あべこべだ。あべ、こべ、あべ、こうべ。夏よ去れ。去れ。脳髄の奥から逆流してくるあべこべの、にせものの、忌まわしい真夏の光よ、去れ。
気づいたときにはもう、群青色の空も見えず、コオロギの声も聞こえなくなっていた。かすかに視界に入った自分の足先は、おかしな方向を向いて自分の顔のすぐ横にあった。あべこべ、あべ、こべ。