せすにっき

日記。2019年1月にはてなダイアリーから引っ越しました。2024年もそこそこ適当に生きたい。

少年とテディベア

まだ言葉もおぼつかない頃から、彼は熊のぬいぐるみが好きだった。
彼の誕生祝いとして贈られた大きな茶色い熊は彼が砂場遊びをするようになった途端にぼろぼろになりついには母親によって捨てられてしまったのだが、彼はそれ以来、何か欲しいものはと尋ねる大人に必ずテディベアをねだるようになった。周囲の愛を思う存分浴びて育つ彼の部屋には、黒くつぶらな目をした熊たちがずらりと並んだ。
彼がたどたどしいながらも言葉を操るようになったある秋の夜、彼の母親が家を出て行った。初孫を溺愛していた父方の祖母が代わりに家に入ると彼はいつも大人しく祖母の言うことを聞き、賢い受け答えをし、鈴を振るような声で笑った。寂しがる素振りを見せることはまったくなかった。
部屋に並んだ熊に一匹一匹名前を付け、彼は毎晩彼らとともに楽しい夢を眠った。砂場に彼らを連れて行くことはなくなった。汚してしまったら捨てられてしまうからと理解するほどに成長していたのだった。
しかしながら、毎晩抱いて寝床に入っていたお気に入りの一匹の様子がおかしいのに彼はある朝気づいた。左腕の付け根がほつれてちぎれかけている。
お外に出なかったのに、この子は捨てられてしまう。そう考えた。祖母に頼めばきっと裁縫箱を出してきてあっという間に繕ってくれるであろうそのほころびが、なぜか癒えることのない傷口であるかのように少年には思えた。
少年は、左腕がちぎれかけたその熊を今まで以上に可愛がり、他の熊たちには目もくれなくなった。家に居るときには大事に抱えて歩き、学校に行っている間はベッドの下にしまいこみ、薄茶色の壊れかけたテディベアを他の者には決して触れさせなかった。「行ってくるよ、ぼくが帰ってくるまでここでじっとしてるんだよ」彼は円いふたつの耳にささやいてドアを閉め、明るい外の世界へ出て行くのだった。
だがしかし、傷口はふさがらないのだった。ある朝目覚めると熊の腕はすっかりちぎれていて、少年が目覚める前に彼を起こしにやってきた祖母にそれは見つかってしまっていた。もうすっかり毛羽立っていた熊の頭をなでながら祖母は少年に優しく声をかけた。
「ね、これはもうぼろぼろになっちゃったから、捨てようね。今日からあっちの棚にいるあの子と寝なさいね、おばあちゃんが買ってあげたあの白い熊さんとね」
彼は大人しく祖母の言うことを聞いた。
「うん!あの熊さん、とってもかわいいね。ぼくあっちの熊さんも大好き。ぼくもうこの古い熊さんはいらないよ」
もう顔も覚えていない母親が作ったテディベアが家を去った。
その晩、ベッドの中でおぼろげな眠気に包まれながら少年は白い熊の腕をまさぐったが、毎晩触れていた儚い傷口を見つけることはできなかった。少年は部屋の明かりをつけた。
少年の周りを、艶を帯びた黒い瞳が取り巻いている。そのどれもが泣いているように思えた。少年は急に心細く、そしてなぜか腹立たしく感じた。
抱いていた白い熊の腕をつかんだまま、床に叩きつける。思いのほか軽い音がして熊の体は激しく弾んだが、少年はもう一度、今度はもっと力を込めてその白い塊を振り下ろした。
頭を踏みつけ、掴んだままの手をぐいと引っ張ると、ボソリと音がした。抱き上げるとテディの腕はぷらりとおかしな方向にぶら下がり、綿をのぞかせていた。
これでよし。
少年は息をついた。部屋の明かりを再び消して、ベッドに潜り込む。
今夜からは君を守ってあげるんだからね。君は壊れかけているんだから、いい子にしてないと捨てられちゃうんだからね。代わりなんて、ここにはいっぱいいるんだから。
彼は笑った。鈴を振るような声が子供部屋に響き、白い熊の円い瞳もカーテンの隙間から差し込む月の光に濡れて嬉しそうに光った。