せすにっき

日記。2019年1月にはてなダイアリーから引っ越しました。2024年もそこそこ適当に生きたい。

風をおそれた男

ある中年の男性が死んだ。
彼は3度結婚し、2度は離婚して、3人目の妻を殺すと自らも命を絶った。遠縁も遠縁の、どこでつながっているのかわからないその家系図の隅にいた私は今までその男性の存在さえ知らず、彼が食い潰したという残りわずかな資産を相続する手続きに呼ばれて彼の住んでいた小さな村を訪れた。
都会暮らしの私には見渡す限り金色の小麦畑をなでる風がたいへん心地良く、馬車の窓から眺める森や草原や小さな集落からは、この村で起きてしまった悲劇をうかがわせるようななにがしかの陰鬱な匂いの、ほんの微塵も漂ってこなかった。
男の遺書には自分のことを少々と、彼が死にいたるまでに出会い妻とした女性3人のことが、乱れた字で綴られていた。
昔は領主などという名で呼ばれた大きな家に生まれた男は、どういうわけか、城とも呼ばれた大きな屋敷から外に出ることを幼い頃から極端に嫌がった。彼は記していた。風は、恐ろしい。目に見えないのにカーテンを揺らす。その尻尾さえつかむことができないのに人の顔を気味悪くなでて行く。時には荷馬車で遠くをゴロゴロひかれていく堆肥の耐え難い悪臭までも運んでくる。こちらが望んでもいないのに。
嵐が恐ろしいのはみな風のせいである、とも書いていた。雨は、従順だ。ただ引かれるままに地面へ向かっていく。それを閉め忘れていた窓から廊下の中へ叩き込むのは風のしわざだ。嵐の過ぎた朝、屋敷の中に濡れた床を見つけるとまだ幼かった男は泣き喚き、下女に命じてすべての窓という窓をふさがせた。両親は烈火のように怒る少年に対してただはらはらと心配することしかできなかった。
流行り病で運悪く両親が他界すると、代々仕えている少数の者たちを除いて使用人は解雇され屋敷を出て行った。残った者たちもみな年老いていたので、男が成人する頃にはもう屋敷には男ともうひとり、身の周りの世話をする老女しか残っていなかった。私も一度だけ会ったが、部屋にいるのかいないのかわからない、歩いても空気ひとつ動かさない、影のような下女である。今はもう90に近い歳だという。
「風の日には、坊ちゃまは、ええ、けっして庭へも出ようとなさいませんでしたよ。たまに近くを散歩してらっしゃいましてもね、ちょっと小さなつむじ風でも起ころうものなら、血相を変えて戻っていらっしゃるのです」
 
季節変わりの強風が続く夜には、ふさいだ窓枠もガタガタと音を立てる。そんな晩には男は飛び起きて、屋敷中を異様な早さで歩き回くのが常だった。心配した下女が出ていくと、男は廊下のドアが閉まる音にさえ飛び上がり、「やめろ!やめろ!」と怒鳴りつけた。近づいていくといつも男は、自分の両腕を抱えてずんずんとその場を往復しながら、ガチガチと歯を鳴らしているのだった。
 
男は隣村の村長の末の娘を娶ることになった。恵まれた家庭でなんの屈託もなく育った明るい娘であった。男に対してもなんのためらいもなく接し、男も彼女の素直さを愛した。が、婚礼の支度に皆が追われていたある日、村長の娘は下女や出入りの大工に命じて窓をふさいだ板をすべて取り外させた。
「だって、お祝いの宴に招待した皆様に失礼でしょう、こんなに暗いじめじめした広間に人を呼べやしないわ」
 
そう言って屋敷に風を入れた。娘のその朗らかさを愛した男だったが、自らがなによりも恐れているものの存在について、とうとう娘に打ち明けることができなかった。10年ぶりに涼やかな風の吹き込むその広間で皆が頬を紅潮させ祝いの杯を交わしているその最中に男はこらえきれず席を蹴って立ち上がった。青い顔をして、さめざめと涙を流していた。
新婦は何も説明されないまま、次の日に屋敷を追われた。若いがゆえの心変わりかと周囲の者は娘を気の毒がったが、抗議にやってきた隣村の村長さえ男の顔を殴るどころか屋敷に足を踏み入れることもあたわず追い返されると、やがて、不気味がった人々はこのことをなかったことにしようと忘れ去っていった。
 
男は、しかし彼なりに悲しんでいた。目には見えない風に対して恐怖を覚えるのはどうやら自分だけらしい、というのは幼い頃にもうとっくに気づいていたことで、自分の周りの空気がどこかへ流れていき、なまあたたかい別の空気がどこからか自分を襲ってくるときのこのたまらないいらだち、どうどうと風の訪れる音を聞いたときの内臓が裏返るような不安、部屋の窓枠がゴトゴトと揺さぶられてその振動がベッドまで伝わってくるときの、自分の脳髄が誰かの手でつかまれて、割れて血を噴く頭蓋からひきはがされていくかのようなおそろしい心地を、愛する人に伝えられるのだろうか、伝えていいのだろうかと迷っているうちに、風は彼女を味方にして彼の屋敷に入り込んできてしまったのだ。だから、悲しいけれど、男はお別れをした。
 
それから何年かが過ぎ、男は出入りの果物売りの女と恋に落ちた。貧しい家族を養うためにかいがいしく働く果物売りは、男の青白い顔を心配して毎日やってきて、そのうち屋敷に住み着いた。女にとっては没落してはいてもいまだ村で一番大きなその屋敷に住む男の財産ももちろん魅力的だったが、どこか幼さを残したまま一人きりで歳をとってきた男のために、なにより自分が献身的に尽くすということを生きがいと決めたようだった。それが彼女の性分だったのだ。男が外へ出たがらないことにも、屋敷の窓がふさがれていることについても、何も口を出さなかった。歳月が過ぎて男はそんな女に心を許し、かつて打ち明けられなかった自分の悩みをぽつり、ぽつりと、しかし真剣に語った。自分の脳髄をひきはがそうとする、見えない手のことを。
「なんだ、そんなのただの幻よ」彼女は笑い飛ばした。
「風なんて、なにさ。目に見えるもののほうがよっぽど怖いわよ。借金取りとかさ、人さらいだとかさ、村の麦畑だって風なんかには負けやしない。大水や日照りのほうがよっぽど恐ろしいね。あなた、いいかげん子供ぶるのはやめて、あの板っぺらだってぜんぶ取り外してしまいなさいよ」
 
彼女はなんて幸せなんだろう、と男は思った。風の恐ろしさが、てんでわからない。風が吹く、それを想像しただけで息が苦しくなる自分が、そしてそれを彼女に打ち明けた自分が、とてつもなくみじめに思えた。彼女の顔を見るのも嫌になった。
そんな男に愛想を尽かしたのか、果物売りは自分から屋敷を出て行った。
 
何度も何度も季節がめぐって、そのたびに風が吹き、男は夜となく昼となく、湿った廊下を靴音高く行き来した。屋敷の外を吹く風がそこかしこの見えない隙間をくぐり抜け、彼の全身の皮膚をなでてはその表面を少しずつ少しずつ、削り取っていくように思われた。彼の髪はいつしか、彼の肌と同じように真っ白になっていた。
 
穏やかな晩春の昼下がり、彼のもとをひとりの女性が訪れた。汗ばむほどの陽気なのに頭からぼろ布をまとい、その端からのぞく長い髪の毛は汚れていた。
「あなたの噂を耳にして、山の向こうの村からまいりました」
 
男が女性を客間に通し、怪訝そうな下女をさがらせると彼女は堰をきったように話しはじめた。
「あなたは、風を恐れていらっしゃるのですね。わかります。わたしもそうなんです。この苦しさを分かち合えないかとこうして、故郷を捨ててやってまいりました」
 
女性の語る恐怖は、まるで男のものと同じだった。誰にも打ち明けられない、話してもわかってもらえないつらさも同じだった。彼らは合わせ鏡の中の分身同士であるかのようだった。男は心の中のなにかがはらはらと解けて行くように感じた。彼女を離すまい、と思った。男は婚礼を行おうと申し出た。が、女性は断った。
「素性も怪しいわたしをわざわざ、風の恐ろしさを知らない方々にお披露目していただかなくてもけっこうです。あなたが変わり者だと陰で笑っているかれらを客として屋敷に招くこと自体、あなたにとってもおつらいことではありませんか。わたしも同じです。わざわざ風を呼ぶようなことを、する必要はありません」
では自分の財産をすぐにでも半分分け与えよう、と提案したが、それも断られた。「あなたがずっとずっと一緒にいてくだされば、わたしはそれだけでいいのです」
男はすぐに下女に命じて神父を呼びに行かせ、二人の永劫の幸福を誓った。神などはなから信じていなかったが、自分の恐怖を、そして自分そのものを理解してくれる存在があったことを神に対して勝ち誇りたい気持ちでいっぱいだったのだ。
 
その夜、星の光に溢れていた空がにわかにかき曇り、雷鳴が静寂を破った。屋敷の前庭に突風が起こり、それは男の寝室の窓枠を烈しく揺さぶり音を立てた。まだ明ける気配も見せない空は全力で渦巻き、荒れ狂っていた。
湿ったシーツの下で先に目を覚ましたのは女だった。恐怖に目を見開き、全身を震わせてベッドを飛び出すと、真っ暗な部屋の中を裸体のまま歩き回り、どこかにつまずいて倒れ、起き上がってまたぐるぐると歩き始めた。組んだ両腕は蒼白で、伸びた爪がひどく肌に食い込み、うっすらと血さえにじませていた。
夫となったばかりの男が目を覚ましてその様子に気づき、駆け寄って妻を抱きしめた。いいんだよ、怖くないんだよ、怖くない、怖くない、
怖い。
怖くないなんて言えるわけがないじゃないか。風だ。風なんだ。風が暴れまわっているんだ。怖い。怖い怖い怖い。君だって怖いだろう?いや、怖いのかい?そんなに震えて、そんなに汗をかいて。怖くないわけがない。だってぼくだって怖いんだから。怖い。怖い。ああ、君もいま、味わっているのか、見えない手が脳髄をひっつかんで頭蓋骨から抜き去ろうとしている。見えない手が。風が。これが怖くないわけがないじゃないか。そんなに涙を流して。ぼくも泣いているよ。ぼくも怖いから。怖い。怖いね。怖い。怖いよ。そうだ、君は黙っておびえているけれど、ぼくは君の代わりに叫んでやる。やめろ!やめるんだ!でも風はやまない。荒れ放題の農器具小屋のほうから、何か大きなものの倒れる音がする。ぼくの妻がますますおびえてぼくの胸にしがみつく。ものすごい力で。彼女はぼくと一緒にいても怖がっている。これだけ怖がっている。
 
怖い。
ぼく以外にこんな思いをしている人が、もう一人この世にいるということがわかってしまった。それがなによりも恐ろしい。ぼくには、耐えられない。目の前で震えている君に、ぼくも怖いと泣いてみせることに、なんの意味もないことがわかってしまった。心の奥底の秘密を理解しあい同じ気持ちをもてるということはとても幸福なことだと思っていたけれど、そのためには相手の苦しみをこの身に引き受けて、そのうえ自分の苦しみをも相手に背負わせなくてはならない。二人が分かち合える最大のもの、それが恐怖する心だなんて、それがなによりも耐えがたい。それが怖い。
 
下女が駆けつけたときには新妻は既に息絶え、ベッドの中で赤黒く腫らした顔を仰向けにして寝かされていた。男は脇で放心していたが、下女が村の者に助けを求めに行っている間に、手近にあったペンと紙にありったけ書き殴り、その場で首を吊ってしまった。夜が明ける頃には嘘のように嵐が収まっていたということだ。
 
私は下女の話を聞き、男の遺書を読み、そして慌しくもろもろの手続きを済ますと自宅へ逃げ帰ってきた。屋敷も人手に渡すことにした。思い出してはいけない、記憶にとどめておいてはいけないと、頭の中で誰かが言う。きっと、そうしなくては私の想いがどうしてもまた、あの麦畑に囲まれた田舎の屋敷へと向かっていってしまうからだ。夏の湧き立つ雲の向こうから、冬の重い曇り空の彼方から、押し寄せてくる風を恐ろしいと感じる自分に、気づいてしまうからだ。
そしてともすれば、命を分かち合えたかれらのことを、うらやましいと思ってしまうからだ。