せすにっき

日記。2019年1月にはてなダイアリーから引っ越しました。2024年もそこそこ適当に生きたい。

晩飯とグダグダな何か

  • 豚肉とキャベツの茹でたの@おかか生姜醤油
  • きゅうりのぬか漬け(やや古漬かり)
  • キリンのどごし生

職場の会話。大盛り上がりしているが俺はパソコンに向かって必死で作業をしてそれが耳に入ってこないようにしていた。
いわゆる下ネタ全般一切お断り!みたいな潔癖症では決してない自分だが、下ネタにも色々あるわけです。で、俺は単にこの方面が苦手なのかな、と思って最初は普通に聞き流そうとしていたのだがやっぱり耳に入ってきてしまう。内容はたわいもないことで、お店のおねいちゃんと遊ぶのが大好きな普通の遊び人のおっさんがそのシステムとかについて詳しく解説しているだけなのであり、万人が不快感を催すほどのセクハラじみたものでもない。しかし周りの数人が面白がって笑いながら続きをうながす様子を見てどうも生理的な違和感と、そしてその場の空気からひとり取り残されたという焦燥感が、俺の胃の底の辺りにどんよりと溜まっていくのがありありと感じられた。
どうも生々しすぎるのだ。たとえば今音声として耳に入ってくるこの体験談がもしもテキスト化されて提供されているのならば、俺は何の抵抗も感じずにそれを面白がって読むだろう。実際そういう小説を読んで、不快に感じたことはいまだかつてない。しかしブンガク作品として古今東西の作家たちが形にしてきたのと同じような事柄*1を、今自分の目の前で生活の場の一部をともにする生きた人間が語るということに俺は激しい抵抗、敢えてこう表現するのならば、怒りを感じたのだった。
なぜ怒るのだろう。ブンガクならおkで、知人が語るのは駄目なのか。戦前の芸者街などと違ってまさにアップトゥデイトなゲンダイにおける、耽溺している本人からのある意味貴重な生情報ではないか、寡聞な自分にとってはなかなか聞けないお話で、聞いてお得かどうかは微妙だが知っておいて別に損もしないしいいんじゃないか、と自分に言い聞かせるのだがやっぱりだめだった。
どうしてここまで動揺してしまうのだろうと考えてみると、ひとつには上に書いたように生身の人間が苦手という感覚、これが過剰に呼び覚まされてしまったことが挙げられる。あくまでも作品として提示された語り、しかも自分の実生活とは関わりがない遠い人間の、あるいはもう死んでしまった人間の文字化された語りだからこそ俺はそれを安心して咀嚼することができるのであって、今まさにここにいて自分と交流のある人間が同種のことを開陳している、という状況に俺の神経は耐えられなかった。
そしてもうひとつは、自分以外の周囲の人間が別に何の苦痛を感じるふうでもなくむしろ楽しさを感じていること、ひいては自分の今の感情はこの場の誰とも共有し得ないものであるということを、静かに思い知らされてしまった、ということだった。
まーこんな日もあるが、自分がどうかしているだけだ。桃食って寝る。

*1:商品化された性とその取引が準拠する流通システムについての叙述、とでも呼ぼうか