この物語を読んだとき、その糸が、自分が紡ぎたくともかなわなかったその糸が、確かに時空を超えてどこかへつながっていくのを見たような気がした。
というのも多分自分勝手な願望を勝手にこの物語に投影したものなのだ。閉じた思いは閉じたままに。
僕らひとりひとりの宇宙は完全に内向きに閉じている。人間ひとりにつき世界がひとつずつ与えられていて、たまたま同じ時代、同じ空間にいる人間は同じものを見聞きし体験するかもしれないが、それらはすべて彼らひとりひとりの世界での出来事であるにすぎない。だからひとつの事実に対して人の数だけの真実がある。それをもしも安直に、たとえば孤独と呼ぶのなら、孤独というのはなんと普遍的なものなのだろう。あまりにもありふれているから、人はその存在に気づかない。
さてと、いい加減何が言いたいのかわからなくなってきた。
クロスホエンという場所がある。そこで見出された狂気の排出法。凶暴な生命体から取り出された狂気ははるか外、時空の彼方へ吐き出される。この装置は完璧な神の右腕なのか、どうやっても贖えない罪を抱えた人間のそれなのか。とにもかくにもそうして天国があり、地獄がある。そんな話。排出法を発見した者は、それを後者であると認め、自らを滅ぼして贖おうとするが、排出されたその先で聖者の姿をとって現れたとされたそれも理論上、彼の狂気であることにかわりはないのだろう。さて狂気とは、いったいなんであろうか。
こうして300人を超える人間の命を奪い、なおもこの世のすべてを愛していると叫んだウィリアム・スタログは処刑された。