せすにっき

日記。2019年1月にはてなダイアリーから引っ越しました。2024年もそこそこ適当に生きたい。

晩飯

久しぶりにちょっとだけ外で飲んで帰る、つもりが、カウンターの反対側の端にいた二人のおっさんの昔話に聞き入るうちについついまったり。電車を降りると空腹を覚えたのでスーパーで生春巻を買って帰る。まだ頭がふらふらする。

ややネタバレ気味に書く。
自分の頭の中にあるもやもやと霞がかった絵物語を拙いながらも文字にしてみようと試みるとき、その白く細かな光を放つ霞をうまく取り払えず、かといってそれを克明に描写することもできず、ついつい使ってしまう安直な表現がいくつかある。
時空を超えて、というフレーズおよび設定もそのひとつだ。
自分が何か架空の舞台を用意して「おはなし」を書こうとする時、多くの場合は架空でもなんでもなく、自分がこの世界で言ったり行ったりすること、する場所を頭に置いている。そしてそのうえで、この世界で自分にはきっとできないだろうことをも主人公にさせ、言わせる。代償行為としての書き物。
そしてそのおはなしの中身が現実とかけ離れ、自分の脳内だけで成立している整合性を論理的に説明できずにいるとき、頭の中には、普段使わない、時空という言葉が浮かんでくる。この物語は自分を慰めるためだけに存在するのではないのだ、例え誰にも理解されなくても、どこかの星で、どこかの時代で、起きていくことがらなのかもしれないのだ、こうやって書くこと自体がそうした自分にとっての未知の世界へ細い糸を結びつける行為であるかもしれないのだ。そう自分に言い聞かせ、そのように綴る。誰かが書いていた。細胞の中をずっと進んでいくと、宇宙になるんだよと。

そうやって描かれた自分の物語もしかし到底、時空を超えるような力を持ちえず、ローカルフォルダかWEBのキャッシュの中に埋もれやがて物理的な終焉を迎えるのを待つのみであることを知っている。結びつけたと思い込んだ細い糸の端はまるであるじのいなくなった蜘蛛の巣の切れ端のようにふわふわと揺れて無残にもちぎれていく。いや、はじめからそんな糸は生まれていないのだ。すべては自分の妄想なのだ。
この物語を読んだとき、その糸が、自分が紡ぎたくともかなわなかったその糸が、確かに時空を超えてどこかへつながっていくのを見たような気がした。
エンタの神様が始まったので続きはあとで書く。