
- 作者: 山田雄司
- 出版社/メーカー: 吉川弘文館
- 発売日: 2007/07/21
- メディア: 単行本
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で、今日はその百首目の詠み人、順徳院について。ぼうずめくりをしながら「ももしきや」を「ももひきや」とパロッてみんなで大騒ぎするという失礼な小学生だった俺にとって順徳院がどんな人だったかというのはしかし全然興味の対象外であり、歴史の授業が嫌いだった中学生の俺は承久の乱というのはよくわかんないけど幕府に政権を取られた天皇側が幕府を倒そうとして敗れたということしか学習しなかったし、高校生の授業では日本史を取らず大学では日本史の授業があったかどうかもよく知らず、社会に出たらますますそういうことに興味を持つ機会もなくなった。順徳院が後鳥羽院の子で、承久の乱を引き起こした人物として父同様に配流されてたってことすら知らんかった。ここ最近の怨霊本読書歴の中でもそういう文章はたびたび出てきていたかもしれないが、頭に残らなかったのだろうなあ。むむむ。
配流後、生前から祟っているとまで噂された後鳥羽院は1239年、そして順徳院は1242年没。うーむ、百人一首本を読んだときにもきっと書いてあったんだろうけど、ぜんぜんぜんぜん頭に残ってないよ。もうだめだ。でも崇徳院や安徳天皇と同じように「徳」の文字をおくられるくらいだから、順徳院の場合もやっぱり怨霊となることを周囲がおそれていたわけだな。*2
順徳院の「百敷や」の歌は乱よりも前に詠まれたものらしいんだけど、その後の院の人生を思うとなんだかグッとくるものがあるなあ。皇親政治の邪魔となった蘇我氏を倒した天智の頃をなつかしんだ天皇が、やがて鎌倉幕府に敗れた末に都を離れた土地へ流されるという苦い結末。昔をしのんでもしのびきれなかったという話。
後鳥羽院の怨霊騒ぎは佐渡の順徳院の耳にも入っていたらしい。
順徳は後鳥羽院怨霊におびえる世情を知っていたようで、本来重陽の節句を言祝ぐべき九月九日に亡くなることを望み、みずからの怨霊化ないしは後鳥羽院怨霊の増大を企てていたようである(藤川功和「『平戸記』の順徳院―仁治三年十月十日条から読む―」『明月記研究』七、二〇〇二年)。
きのうは崇徳院のことを「この人別に怨霊とかになりたくなかったんじゃない?」みたいに書いたけど、なんかそれも自信なくなってきた。いや、崇徳院の怨霊騒ぎが伝説化したからこそ、100年後にもそれにならう形で自ら死してのちに怨みを晴らそうという考えが出てきたってことなのかなあ。