せすにっき

日記。2019年1月にはてなダイアリーから引っ越しました。2024年もそこそこ適当に生きたい。

寄り道晩飯

植木鉢の下皿を買ってくるつもりが忘れた。あとまたもご無沙汰していた店に行ったので、そこの常連との話のテンポがすっかり合わなくなっていたのでびっくりした。これをもって俺の会話スキルがますます低下したなどと縁起の悪い結論を出すつもりはない、ないのだが、前からあんなノリだったかなあの店は、それともあの二人が揃うとああなるのかと無意識のうちに常連のせいにしている。ゼブラクラブとかブルースカイとか、そのへんの話をふむふむと聞く側に徹するしかなかった。
聞きながら、ああここで「ええー!そうだったんですかあー!」とか「すごい!よくごぞんじなのですね!」とかハイトーンでオーバーに感心したらきっと二人とももっと喜んでしゃべってくれるのだろうなー、でもめんどくさいからいいや、と思ってしまった自分をかえりみるに、やっぱり会話スキルというのは自分のやる気がないとどうにもできないもんだな、と帰宅して湯冷ましをごくごく飲みながら思い直すのであった。
自分の部屋にモノが増えることに対して鬱陶しさというよりもむしろ嫌悪感、恐怖に似た感情を抱くときがたまにある。欲望が形となって空間を占拠する。そして自分はきっとそれに飽き足らず、そのうちにまた次の「これ欲しい」が頭をもたげてくるに違いないのだ。
財布に銀行からおろしてきた紙幣を入れると、それを使いたくなる。金というのは使ってこそのものであり、それと引き換えに欲望が満たされて、モノが増える。モノが増える代わりに自分の部屋の空間が少しずつ塞がっていく。
などという想像はたぶん俺の部屋が狭いからこそ圧迫感をもって俺の心にせまってくるというだけのことなのであり、また実際にはそれらのモノたちも古びたり使わなくなったりして自分のもとから離れていくのであるから、モノに埋もれて窒息するというようなおそろしい事態にはならないのであろう。しかし何かを欲しいと思うとき、その自分の欲望自体が、果てしなく膨張していくゴム風船のように感じられる刹那がやはりたまにあり、そんなときには欲しいという感情を何か色々な言い訳でごまかして殺してしまおうとする。ゴム風船であるならば、果てしなく空気をはらんで膨れていくうちに、そのうちパチンと音を立ててはじけてしまうような気がするからだ。別になくたって困らないじゃないか、という姿勢は一般的には己の足るを知る生き様の表れであるだろうが、自分の場合にはそれが何かから、いや何より自分の欲望からの逃げなのではないかという後ろめたさを常に伴っている。
なので財布に入ってきた貨幣を、何か無形のものに費やすというのはどうか、という提案もここでは筋違いとなる。映画を見るのは?とってもおいしいものを高級レストランへ食べに行くのは?奮発して旅行に行くのは?
頭の中にモノが増える。
それが有意義なのかそうでないのか、ときどきわからなくなることがある。有意義ということにどれだけ意味があるのかもわからなくなる。
といってもまあ、そんなんはたまーに軽く酔っ払ってふらふら駅ビルの中をさまよっているときくらいにふと覚えるかすかな感情であって、通常の俺は増設用のメモリを買ってわーいゲームができるぞーと喜んだり、似合うかどうかも確かめずに新色のエナメルを買ってスキップでうちに帰ったり、健康ランドで一日まったりしたり、ヨーグルトを買い漁ったり、読みきれないのに本を注文しまくって積読の山を成長させたりと、貧乏ながらも消費生活をエンヂョイしまくっているわけだ。
というようなことを帰りの電車で考えていたけれど、思いついていたはずのオチの文章は車窓の向こうに広がる夜の曇天へ、漠と溶けていってしまった。