せすにっき

日記。2019年1月にはてなダイアリーから引っ越しました。2024年もそこそこ適当に生きたい。

ヴァニシング

同期たちの中で、女ではあいつが一番仕事ができると思った。目立った活躍をしたり、社長表彰を受けたりしたことはなかったが、会議ではいつもツボを押さえた受け答えをし、用意してくる資料は過不足なくまとめられたもので、彼女とは同じ部署にいて、自然とライバル関係に立っていた俺は、昇進だの栄転だのという知らせがやたらと気になる年齢にさしかかるにつれ、いつ出し抜かれるかとひやひやしていた。
そんな彼女の様子が急におかしくなったのは1ヶ月ほど前からだった。急にミスが増える。電話で取引先と話が食い違って慌てて説明に出かけていく。見積もり書の訂正版を引き渡しそびれて後になってひと騒ぎになる。大事な客先プレゼンに遅刻する。
性格の悪い俺は初めのうち、ライバルの乱調を見ては一人ほくそえんでいた。部長のデスクに呼びつけられ、うなだれる彼女の姿に同情のかけらも感じなかったが、同僚として慰めるふりをしたりした。だがそのフォローがすべて自分に回ってくるとわかってからは彼女にそんな偽善をしてやる余裕すらも無くなった。深夜に彼女とノートパソコンを並べて、あちこちに瑕疵のある書類の作り直しをしている時は、心底かんべんしてくれ、と思った。実際顔に出ていたのだろう。彼女はずっと赤い目を腫らしながら申し訳なさそうにこちらを見るのだった。
やがて、彼女に何が起こったのか、うすうすわかってきた。
彼女の友人―いや、正しくは単なる同僚の女性たちが社員食堂で交わしていた話がふと耳に入った。フリン、ワカレタ、オロシタ。いや、正直こんな話は職場の彼女の姿からは想像もつかなかったのだが、そういったたぐいの話自体はうちの会社にはごろごろしていたから、自分はふーん、と思った。意外に思ったのは、彼女がそれを直接友人には話していないのに、どこからか話が伝わっているという事実だった。どうやら有休を取って旅行に出ていたはずの彼女の姿を、同僚の誰かの友人のそのまた友人の身内が偶然病院で見かけたらしく、そのことから様々な証言が集められて事態の一部始終が突き止められていた。女は怖い、と思った。しかしその場はそれで終わった。ああ、これで仕事どころじゃなくなってるのか彼女は、と思っただけだった。
彼女の仕事上の状況悪化についての直接の原因を把握したのはもっとずっと後だった。
彼女が職場のマシンとは別に、仕事にこっそり流用している私物のモバイル機器があった。こいつが少しだけトラブった時、自分が少し復旧の面倒を見た。その時見てしまったのが彼女の秘密の日記だった。といってもそれは素性を伏せながらもインターネットの世界で公開されていたわけだから、厳密には俺を含めた「彼女の身の周りの人間には秘密の」日記であった。名前や社名、業務内容を伏せただけでそこには紛れもなく彼女の職場での日々が記されていた。ブラウザに残っていた履歴を何の気なく表示させ、それが彼女自身の日記だとピンときた俺は、そのレンタル日記のタイトルと大体のアドレスを覚えておいて自宅のパソコンでそれを探し出し、読んだ。彼女の身に起こったことが記されていた。
 大本の事件の経過については社員食堂で同期たちが話していた通りだった。しかしそれはあくまで淡々と書かれており、事実の羅列以上の何物でもなかった。子供ができたと上司に知らせたこと、約束を果たしてくれるよう迫ったこと、なかったことにして欲しいと告げられたこと、ある目的のために金を渡されたこと、病院へと出かけていったこと・・・。すべてまるで他人の身の上に起こったことのような書き方だった。そこには恨みごとも愚痴も、感情的な表現は一切なかった。彼女自身そのことをまったく気に病んではいないかのようだった。ただ一言、「早く忘れてしまいたい」と書いてあった一文が印象に残った。
自分がショックを受けたのはその事件の後についての記録だった。
彼女は初めのうちは自分に起こり始めている異常な事態に気付いていなかった。日記の記述は相変わらず事実の羅列のみであったが、それだけで俺はここひと月の彼女の不調の原因を知ることができた。
ある意味では彼女は自分の希望を本当に叶え始めていた。
朝起きて、今日が何の日だったか思い出せない。自室のパソコンを立ち上げて、やっとクライアントのもとへ出向く日であったことに気付く。しかしどの書類が必要だったかがわからない。そもそも何を取り決めるはずだったかが思い出せない。思い出せないが、行かねばならない。スーツに着替えて出社し、机の引き出しの手前にある書類をごっそり持って行く。地下鉄に乗る。取引先に到着。会議室のホワイトボードに書かれた文字から、やっとのことで懸案に思い当たって話を始める。無事にまとまって帰社。
確認次第連絡すると言っていた新製品仕様について、まだ判らないかと電話を受ける。なんのことかわからず戸惑う。こちらから連絡すると言った覚えはないのに。しかし予定表をよく見ると自分の字でしっかりそのように書き込んである。その場を取り繕い、慌てて確認をして電話。あまりのレスポンスの遅さにクライアントが不審がっているので結局資料をそろえて直接出向き、説明がてら謝罪。なんとか事なきを得るが上司より叱責。
自分の知らないうちに見積もりが訂正されていた。そしてそれがなぜか自分のデスクにちゃっかり入っている。またも相手先に迷惑をかける。
午前中に何の書類を作成していたのか思い出せない。午後、ワープロソフトの履歴からそれを開いてみると、14時締め切りの社内報向けの原稿だった。提出しそびれてしまった。平謝り。
飲み会をすっぽかしていた。まっすぐ帰宅していた。友人からの電話で気が付いた。
電話に出るが、自分の部署がどうしても言えずにうまく応答できなかった。
出社するつもりが、降りる駅がわからなくなった。大事な日だったのに、遅刻した。
彼女の記憶は壊れ始めていた。
2週間ほど同じような仕事上の失敗についての記録が続いていたが、さらに読み進めると、日記はまたたく間に彼女の業務メモへと化していった。彼女が自分の異常に気付いたのだ。相変わらず詳細は伏せたままだったが、実名をイニシャルに、懸案は当て字に置き換えて、数日後の打ち合わせやその日の会議の決定事項に至るまでを記していた。何か覚えておかなくてはならないことが発生するたびに書き込んでいたのか、短い日記が一日に何度も何度も追加されていた。業務時間中に、無用心にも会社のパソコンから書き込んでいると思われる箇所があり、確かにいただけないことだったが、それは当時の彼女にとっては些細なことに過ぎなかった。伏せられてはいるものの、同じオフィスに居る者がそうと知っていて見ればすぐに類推のできる事項の羅列に俺は彼女の働く姿を思い浮かべながら見入った。彼女が手元のメモ用紙などに書き残すのではなく、あえてWEBにこれらのことをさらす理由がわからなかったが、彼女にとっては安心して書ける唯一の媒体がこれだったのだろう。
メモは日に日に、本当に些細なことへと範囲を広げていった。メガネをかけた白髪の人はY田本部長、斜向かいの茶髪の女性は新入社員のAさん、自分の湯のみには梅の花の模様がついている、さっきの議事録は今日中にまとめた上で企画書に反映すること、明日は月例の社長朝礼だから絶対に遅れないように、そしてパソコンを直してくれたJ君には明日何か必ずお礼をするように。昼休みに高島屋に行くこと。―俺は受け取ったままで引き出しに入れっぱなしの菓子の包みを思い出して複雑な気分になった。
事実を知っている者が、何かしてあげなくてはいけなかったのだ。
今となってはもうそれも叶わない。彼女は先日自宅で、ガスコンロにやかんをかけていたにもかかわらずそのまま酒を飲んで寝込んだためにガス中毒で死んでしまった。安全装置のついているガスコンロは、注意深い以前の彼女には必要ないものだったが、「どうせ滅多に使わないから、なんてケチらずに入居時に自前で買い換えておけばよかったのにね」という同僚たちの評ももっともだったといえる。
彼女が酔っていたというのは解剖の結果わかったことで、そこから泥酔の上での事故として片付いたわけであるが、俺の記憶の範囲では、彼女はいくら酒を飲んでもつぶれたり寝込んだりするようなことのない酒豪だった。きっと、酒のせいで前後不覚になって眠りに落ちたのではなく、ガスコンロに点火したことを忘れ、火の元の点検をも忘れて、いつもの通りに就寝したせいなのではないかと思う。もっとも警察に言わせれば、どちらも事故であり、事件性がないという点で同じなのではあるが。
彼女のWEB日記は、そんなわけで止まったままなのだ。結局日記は彼女が忘れないようにメモをつけてまで俺にパウンドケーキを買ってきてくれた日付で終わっている。そして経過を見ていながら何もしなかった俺は、今になって胸が締めつけられるような気分を味わっている。
時にこんなことを思ったりもする。彼女は、火が消えてガスが漏れ出すことを承知の上で、やかんをかけたまま、眠りについたのではないか。
だが、あの淡々と事実だけを書き連ねた日記からは、彼女がどんなことを思っていたのかがまったく読み取れない。彼女は自分が陥っている状況をどんなふうに感じていたのだろう。
ずっと不可解であった疑問が、そこでうすぼんやりと形を成していくように思えた。なぜ彼女がわざわざ自分の記憶を、自分の身の周りのことを、身元が割れかねない危険をおかしてまで、インターネットという誰が見ているかわからない空間に晒していたのか―。
だが今となっては、何もかももう遅いのだ。