せすにっき

日記。2019年1月にはてなダイアリーから引っ越しました。2024年もそこそこ適当に生きたい。

ずっとずっと気になっていた漢字の読み

「逃」という字を音読みでトウと読むのがとても不自然に思われてしかたがない。特に「逃避」という単語でそれを強く感じる。「逃走」がトウソウであることにも違和感がある。日本史に出てきた「逃散」という用語はトウサンではなくチョウサンと読むが、自分からしてみればその読みの方が俄然、字面に合っている。日常において何気なく使っている漢字にも、使われ始めてから読みや意味の変化変遷を経て今のかたちに落ち着いたという歴史的経緯が潜んでいる。ただなんとなく自分の感覚に合致しないからといって、他人に対しても「逃」はトウよりもチョウと読まれるべきである、と主張するつもりはないのだが、しかし「逃走」をトウソウと読んでいる場面を見聞きしたときの自分のモヤモヤ感はやはり、並大抵ではない。だが「逃」をチョウと読む事例を自分は上記「逃散」においてしか見たことがない(しかもこの「逃散」さえもトウサンと読まれる場合がある)。やはり「逃走」はチョウソウでなくトウソウであり、「逃避」はチョウヒにあらず、トウヒなのだった。
どうして自分はこの読みに違和感を覚えるのだろう。と今朝、日記の編集画面を開いたままココアを飲みながらボーッと考えていた。今思いつく限りで音読みトウが付く単語はそう多くない。

  • 逃走
  • 逃亡
  • 逃避
  • 逃避行

そろそろゲシュタルト崩壊を起こして逃という記号がニゲルという意味を表す漢字に見えなくなってきた、というところで思った。しんにょうの上に載っているこの「兆」が曲者なのではないか。
「兆」。単独ではチョウと読まれ、数の単位として使われることでもよく知られた漢字である。これが「逃」という漢字において、音的にも形状的にもたいへん重要な存在なのではないかと気が付いた。
だって「兆」ってなんか蝶が羽を広げてるみたいじゃね?それにそもそも兆単独でチョウって読むんでしょ?そんなチョウチョウしたパーツがしっかりのっかってるんだから「逃」はチョウでいいよね。
とおそらくこんな風に、自分の脳は独自の判断を下しているに違いない。しかし、しかし自分よ。「黄桃」はオウチョウでなくオウトウと素直に読むではないか。しんにょうに載っかっている兆はチョウで、木の横にいる兆はトウなのか。はたまた手の横に兆のいる「挑発」はこれまた素直にチョウハツと読んでいる。この辺の区別はどうして発生するのか。と考え出して行くときりがなく、しかもこんな現実ちょうひ(なぜか変換できない)的思考は人類にとって何の役にも立たないということにしばらく気づかず悩んだ土曜の朝。雨である。