せすにっき

日記。2019年1月にはてなダイアリーから引っ越しました。2024年もそこそこ適当に生きたい。

ヒュートモスの触角

ヒュートモスの愛好者がみな口を揃えて絶賛するのはその触角の美しさである。ヒュートモスを地球の生物にたとえてみるならば、猫か犬あたりが適当だろう。やわらかなからだ、温かな湿ったやや細長い塊の、少し膨らんだてっぺんからは、まるで精緻な金糸の束のようになめらかな艶を放つ、鉛筆ほどの太さの触角が、2本生えている。
ヒュートモスに備わった大きな特徴として、異種思考体共生性というものがある。土台となる生物(多くは地球の哺乳類等でいうと心臓にあたる器官をもっている)の肉体に、べつの生命体が接触し、根を下ろし、その機能を補い合って一体化する。他にそうした例がないわけではないが、比較的高度な発達をとげた生物でこのような特性を持つものは居ない。実はヒュートモスの生態は寄生や共生といった単語で表すのでは不十分であるようだ。かれらが融合の後で急速にそれぞれの機能を特化させていく様子を、異種の生物の連帯ではなくひとつの生命体の成長過程としてとらえ直した新説がセンセーションを巻き起こしたのはつい最近のことである。しかし彼らの心臓、彼らの皮膚、彼らの神経、そして彼らの触角、それぞれが独立した思考をもっている。これは否定のしようがない事実である。
謎多い異星の生物は恐ろしいほどの高値で取引された。飼育自体は極めて容易なのだが、環境の違いによるのか、繁殖は不可能であるようだ。いや、それ以前にこの生き物がどういった生殖行動を行うのかが人間にとってまったく不明なのだ。明らかなのはヒュートモスが極めて扱いやすい従順さと、売買の際の評価基準となる美しい金色の触角をもっているということだけだった。
 
とある実業家の跡取り息子に買い与えられたヒュートモスが居た。飼い主であるその9歳の少年に抱かれるとヒュートモスの無毛の皮膚は青白くわずかに波打ち、嬉しさを露わにした。自慢の触角は初夏の麦畑よりも穏やかな金色に輝き、ゆらりゆらりとそれ自体が意思をもっているかのように揺れ動いた。いや、その2本の触角は実際に意思をもち、全身をもって己の感情を表現しているのだった。
抱き上げられ膝の上に乗せられるときの心地良さを、直接触角自身が感じることはない。それでも、触角とともにヒュートモスとして融け合った別の器官―この場合は主にその体表を覆う皮膚型生物―が受け取った情報を、さらにいくつかの器官が処理し、伝達し、それがめぐりめぐって触角に心地良さとして伝わる。触角は自身の属するヒュートモスという生物が快適な状況におかれていることを知り、自身の体を優雅にしならせることで歓迎の意をあらわす。こんな具合だ。
少年に飼われていたそのヒュートモスの右の触角は、同じヒュートモスの頭部から伸びる左の触角のことをあまり快く思っていなかった。自分ほど美しくはないと思ったのだ。それに左の触角は、主人に抱かれたときにはしゃぎすぎて、時々主人の頬をひっぱたいたり、近くにあるものにぶつかったりしてしまう。自分ほどかしこくも思慮深くもないという風にも思ったのだ。右の触角はヒュートモスの全身を経由して入ってくる情報を受け止め、ときには各器官生物との思考のやりとりを通じ、ときには言語というものを理解しようと試みるなどして、自分(たち)が今どういった環境で生きているのか把握しようと努めていた。とりわけ、ヒュートモスはその飼い主によって愛されている、ということを繰り返し確認した。ヒュートモスのからだの中でとりわけ自分自身、その金色の触角が寵愛の対象となっていることも認知していた。
しかし評価の対象となるその美しさを、左の触角は損ねている、と右の触角は考えた。付け根のあたりで少しだけ節くれだっているから、体をくねらせるとその先端が多少ぎこちなく空中で軌道を描く。自分のようになめらかな動きではない。それに自分よりも感情表現が粗暴で落ち着かない。
率直に言ってしまえば、右の触角は左の触角が嫌いだった。飼い主の少年はヒュートモスを膝に乗せ、右の触角を優しく撫でてやりながら、跳ねるように大げさに動く左の触角を見るところころとよく笑った。右の触角にはそれが不快だったが、だからといって自分もあのようにがさつな所作で主人の歓心を得るなどということはできないのだった。そのように振舞う触角など、美しくもなんともないではないか。美しくない触角をもつヒュートモスは、もはやヒュートモスではありえないではないか。
嫌悪と憎悪が右の触角の心の中で入り混じりはじめたある日、小さな事件が起きた。
いつものように床の上にいたヒュートモスを、一緒に寝ようと少年が抱き上げてベッドに運ぼうとしたその時だった。右の触角はゆらりとその全身を持ち上げて、ヒュートモスを抱こうとする少年の手の邪魔にならないようにした。左の触角はいつもの通り、おかまいなしにぴしり、ぴしりと体をしならせ、じゃれつくように踊った。ヒュートモスの青白い胴体に両手を回し、しゃがんだ姿勢から少年が立ち上がろうとしたその瞬間、長い左の触角が勢い余って床を打ち、姿勢の変更に伴って接地した少年の室内靴の右のかかとに、左の触角は踏まれたのだった。
少年が左の触角を踏みつけたまま立ち上がったため、ヒュートモスは頭部を引っ張られて床に転げ落ちそうになった。少年が慌てて足の位置を変え、ヒュートモスは転落をまぬがれたが、一瞬のうちに強い力で引き伸ばされた左の触角は恐ろしいことになっていた。表面組織が損傷を受けたために穏やかな金色は濁ったような白色へと変わり、もともと節くれだっていた付け根の辺りには裂け目さえできていた。踏まれた先端は折れ曲がり、痛みはヒュートモスの神経生物を伝わり全身の器官へ行き届き、喉は自らが傷ついたかのようにしばらくの間悲しげな声をあげ続けた。
左の触角は、見るも無残な姿になってしまった。
一瞬の痛みの共有ののち、何が起こったか理解すると、右の触角は思った。ほうらみろ、何も考えずにいるからそうなるんだ。どうしてくれるんだ、われわれはヒュートモスとしての美しさを、お前のせいでますます損ねてしまったじゃないか。
飼い主の少年は、はじめは自分のした事を心から詫び、ヒュートモスごめんね、痛いでしょう、と言葉をかけて左の傷ついた触角を撫でていた。しかし日がたつにつれ、あまりにもあわれな姿になったその生き物を見るのが嫌になったのか、あるいは罪悪感が大きすぎてそこから逃げたくなったのか、そのうち自分が左の触角に対して、いやヒュートモスに対してしてしまった事を認めることすら疎ましくなっていったのだ。
こんな触角をつけたままではみすぼらしいでしょう?
そんな一声とともに、もうほとんど身動きしなくなっていた左の触角は、少年の手にした鋏であっけなく根元から切り落とされた。断面には体液がうっすらと滲み出たがやがて白く固まった。
右の触角はせいせいした気分を味わっていた。醜い左の触角は死んだ。これからは自分ひとりがこのヒュートモスの美しさの象徴として思慮深く振る舞い生きていくのだ。主人の顔を誤って叩くこともなく、主人の靴の下敷きになることもなく、ヒュートモスらしく生きていくのだ。
 
がしかし、片方の触角を切り落とされたヒュートモスは、まっすぐ歩くことができなくなった。それどころか平らな床の上に置かれると、右回りに小さな円を描いて同じところをぐるぐるぐるぐると、衰弱して立てなくなるまで忙しなく歩き続けた。左の触角の死が、ヒュートモスを構成するほかの器官に明らかに影響を及ぼしていた。少しでも体力が回復すると今度は寝床の上をぐるぐると右回りに回り続け、転がり落ちた床の上でまた回り続けた。
金色の美しい右の触角は優雅ながら無意味な軌跡をひたすら空中に描き、その不気味な光景をいっそう際立てた。
少年は後ろめたさの裏返しの恐怖に駆られ、鋏を再び取り上げると今度は右の触角を切り落として窓の外へ捨てた。
その後ヒュートモスが生きているのかどうか、私にはわからない。ヒュートモスの何をもって「生きている」と規定するのかさえも、よくわからない。しかし彼らの心臓、彼らの皮膚、彼らの神経、そして彼らの触角、それぞれが独立した思考をもっている。これは否定のしようがない事実で、後から切り落とされて窓の外に放り投げられた右の触角は、今夜の寒さに堪えきれずにここで土まみれになりながらもうすぐその思考を永久に止めようとしている、これも事実である。つまり私は自らを賢く思慮深いと思っていたのに、生命というものがなんなのか、自分が生きているというのがどういう事なのか、それさえもまったくわかってはいなかったのだ。