せすにっき

日記。2019年1月にはてなダイアリーから引っ越しました。2024年もそこそこ適当に生きたい。

読み終えた

「人間嫌い」の言い分 (光文社新書)

「人間嫌い」の言い分 (光文社新書)

俺は別に人間嫌いじゃないです。と書いておかないとここをいつも読んでくれている人に失礼になっちゃうんだろうかなあ、と考えたりする俺はすでに人間嫌いとしては潔くない部類なのだろうか。
この人の書いた文章はところどころ、うわめちゃくちゃだよと笑ってしまうほど身も蓋もなくて、しかもためになるところもあってとても面白く親しみが持てたんだけども、それだけに本の最初の方で人を「つるみ系」「人間嫌い系」の二つに分類してみせるのが勿体無いと思う。もはや世の中全員が潜在的人間嫌いなのだあああ、くらいの煽り方をうーんと派手にやったらもっとはちゃめちゃ度が増してよかったと思う(いや多分よくない)。そして俺がもっとも恐れているのは、この人の日々の生活を覗いてみたら、俺から見て全然普通に社交的に人づきあいをしているのではないか、という可能性であるが、別にそんな、俺より年上で社会的地位もある人なんだからいくら人間嫌いっつったって俺みたいにプチこもってるわきゃないだろ奥さんもいるしな、とか考えてみても、別にリアル本人に会う機会もないだろうから意味のない思考ではある。いやそんな機会がもしあったら俺は全力で逃げる。
あと、関係ないけど松川事件というのがあったのを初めて知ったので、なんかちょっとこれに関することをもう少し知ってみたいような気がした。
それと、事件とは関係ないけど印象に残った文章。太宰と井伏鱒二のエピソードから。

太宰の書いたことが事実だったかどうかは、さしあたっては問わない。問題は、それがいかにも事実らしく、また小説内の場面に適していたということである。何事も上手く書いたほうの勝ちだというのが、「虚実皮膜の間」を描く人々の矜持だ。そして書かれたことの報復は、書くことで晴らすのが、同じ土俵に立っている表現者の喧嘩作法。だから井伏はそれ以上追及しなかった。
つまり作家同士のあいだでは、名誉毀損を裁判に訴えたりしたら、表現者としては負けなのである。これは素手の喧嘩で刃物を持ち出したら、その時点で刃物を振りかざした側が人間的に負けなのと同じことなのだ。

ぼんやりと、自覚せずして作家性から自ら遠ざかっている人のシャツの背中の色が見える気もするのだった。そこここに書きつけてゆく内容に目も当てられなくなったとすれば、その歩く足取り、残る足跡こそがもっとも雄弁な自伝となるのだろう。