せすにっき

日記。2019年1月にはてなダイアリーから引っ越しました。2024年もそこそこ適当に生きたい。

笑われた男

その男は漠然と、自分の周りにある世界が崩れていくのを感じていた。
毎朝出勤前にコーヒーショップに寄り、同じベーグルサンドとホットコーヒーを頼み、いつも同じ窓際の席に座り、ぼんやりと外を眺めながら朝食を摂る。週末を除いては毎日繰り返される変化のない営みだ。週末とて、カレンダーをたどってみれば、きっちりと同じように泥の沼から寝覚め、身の周りの片付けをしてからビールの缶を開け、空気が冷め始める夕刻にふらりと散歩に出て、川沿いのコースを押し黙ったまま歩き、戻ってきてテレビをつけたまま眠る。この繰り返しだった。
しかし先日から何かがずれている。
すべてあの女のせいだ、そう思った。俺を虚仮にしたあの女が、俺の世界を溶かそうとしている。
あの高らかな笑い声がいったい何を意味しているのか、うっかり考えたのがいけなかったのだ。いつものようにくだらないとやりすごせばよかった。でないと、俺の世界は元の形を保つことができなかったのだ。猥雑に流れる車の列に重なり透けたような自分の顔が正面のガラスに頼りなく映る。
もしかすると本当に透けているのかもしれない。
そう思った瞬間、手に持った朝食のパン切れからばらばらと胡麻粒が落ちた。
男の心の中でふたたび女が笑うと、その黒いものたちがいっせいに小さな羽を生やし、かすかな、しかし耳にさしこむような音を立てて目の高さまで舞い上がった。彼らも、笑っていた。
男は悲鳴を上げて店を飛び出し、次の朝も、その次の朝も、もう永久にその席にやってくることはなかった。