せすにっき

日記。2019年1月にはてなダイアリーから引っ越しました。2024年もそこそこ適当に生きたい。

世界遺産

を見ている。ああ、明日早いから寝ないといけないのに。
「死んだらどこに埋葬されたいですか?」なんて問いかけをやっていたんだけど、死んでまであれこれわがままをいいたくもないし、こんな価値なし人間のくせに死後もなお、限られた地球上で場所を占拠していたくはない。燃えるゴミに出して欲しい。ていうか焼いたあとに残った骨はもう不燃ゴミなのだろうか。跡形もなく消える方法はあるのだろうか。
最近、ずっと見ていなかった顔見知りの鬱な人の日記を覗いてみた。「死にたい」のではなく、自分の生きていた痕跡も何もかも残さず跡形もなく消えたいのだ、という一節には大いに共感した。俺は以前はおこがましくも、死してなお何かを残せれば、なんて思いでいたけれど、今はまったく逆だ。俺という存在がまるで最初から何もなかったようにゼロに還る、それをただ願っている。少なくとも物質的には。
霊的なものを信じているわけではないのだが、人は死後、物理的にはほぼ消滅してしまうわけだけど、それでも人の記憶や想いというのは、この世にとどまっているのではないか、そんな気がしている。残っているのだけれども、パーミッションの設定のせいで誰からも直接はアクセスできなくなっている状態であるだけ。そして、そんな想いでこの世は満たされていて、他の人が何かの折にその想いに、なんとなく、無意識のうちにシンクロしている、しているけれど、それが誰の想いなのかもわからない、そんなかんじなんじゃないかと思っている。
だから人類の進化というか進歩という点でいえば、歴史的な発明や行動をした人や、教科書レベルの歴史に残らなくても国や子孫に大きなものを残した人たちがその名を後世に残すということは当然ではあるのだが、一介の平凡で、というか平凡以下でうだつの上がらないしょうもない人間が、何を残すこともなく死んで周囲の人に顧みられることもなく跡形もなく消えていったとしても、彼が抱いた想いもまた、いつまでもなくならないで、この世に残っているんじゃないかと。オカルトチックなことじゃなくて、ほんとうに、普遍的に、普通に、この世はそういうもので満ちているんじゃないか。
「モノより、思い出」というとある自動車の宣伝コピーが大嫌いだったが、それは「そんなこと言いながら結局モノを売るのが目的である」企業に対しての反発心のなせる業なのであって、「モノより、思い出」という言葉自体には、先の鬱な知人の言葉と同じくらい共感するのだ。
モノなんて場所ふさぎなものは、わざわざ残さなくたっていい。なくたっていい。
でも、モノがないと人間は生きていけないし、想いをつむぐことだってできない。だから多くの人は死ぬまで泣き続け、苦しみ続ける。