そういえば冷え込んだり雪が降ったりしたので、ベランダのプチトマトの苗3本のうち2本がさすがにしおれてきた。残り1本が無事に冬を越したとしても、毎年買ってくる苗と同じようにたくさんの実をつけることはないだろう。寒さに耐えた分必死に成長してたわわに実をつけるかもしれない、という人情味あふれる考え方もあるけれど、たぶんそうはならない。そして自分は凍えそうなプチトマトの苗をそのままベランダに放置することに良心が痛まない。死んだ植物というものは世の中にあまりにもたくさんあふれていて、この苗もそれらと同じ状態に移行するのだと思う、ただそれだけなのだった。
悲しむというのはいったい何に向かう感情なのだろう。悲しみというものは果たして本当に、その対象へと向けられているものなのだろうか。自分はいままで悲しいという言葉を何も考えずに発していたし、感情とはそういうものであるとされているのだから、理屈によって把握することができないのは当然なのだとは思うのだが、その当然というものがとにかくよくわからない。わからないのだ。