せすにっき

日記。2019年1月にはてなダイアリーから引っ越しました。2024年もそこそこ適当に生きたい。

やどかり

我々やどかりというのは、たいへん柔らかい腹をしている。だから、常に天敵から隠れてこの急所を守らなくてはならない。だが、ずっとじっとしているだけではもちろんそのうち飢え死にしてしまう。そこで我々は祖先の時代からずっと、貝殻をかぶって出歩いている。珊瑚に開いた穴にこもりきりの種族も存在するが、我々は歩き回るやどかりである。貝殻というのは、かついでみるとそう軽いものではないが、その中に柔らかい我々の腹を納めたままでそこらを歩き回ることが可能なのである。我々をつつきまわしそうな魚がやってきたら、全身をこの鎧の中へすべりこませてしまうのだ。無敵だ。我々の装甲をも噛み砕く恐ろしい怪物に襲われて命を落とす輩もいるが、そうなるともう天災だと諦めるしかない。私がいま住む砂底には、そうした危険な怪物はまったく現れない。ここは非常に恵まれた土地である。
いや、恵まれているとはいえないかもしれない。この砂底にあまた棲むやどかり達の間では、争いごとが絶えない。平和な世が続き子孫繁栄の時久しく流れて今に至るのだと私は聞いたが、そんな土地であれば皆が幸せに一生を過ごしているのかと思いきや、この土地のやどかり達はいつも貝殻の奪い合いに明け暮れているのだった。
我々は自分の気に入った貝殻を見つけると引越しをする習性がある。我々の体も一生同じ大きさであるわけではないから、成長すれば元の殻が窮屈になる。引越しはしごく自然で当然な行動であると私も考える。だが、なぜかこの土地のやどかりは、必要のない争いをしたがった。つまらない理由で他人の貝殻を欲しがる者ばかりだったからだ。強そうな棘の付いたサザエの貝殻、自分が背負っているものよりも新しい貝殻、逆に自分のものより古びて貫禄のついた貝殻、フジツボの並びが美しい貝殻。そんなものをめぐって争いが続いていた。それを奪ったところで勝者の体に合うとは限らず、村に持ち帰られるだけの貝殻もあった。身につけずに棲家の周りに並べて強さを誇示するのであるらしい。いずれにせよ、別の場所で生まれ育った私には想像もつかない不思議な文化であるといえる。
私はある嵐の晩に、海水の流れに乗って近辺からやってきたよそ者だ。ここには自分を食べようとする敵がいないと知り、初めは涙が出るほどありがたいと思ったものだ。だが、どうだ。この有様は。そこらで貝殻やはさみのぶつかり合う音が響き、切り落とされた脚先がふわりふわりと海中を漂ってくる。
貝殻の奪い合いが集落どうしの戦争に発展することもあった。時には一方的な略奪が行われ、敗北を喫し自らの殻を奪われただけでなく、相手の大きな右のはさみで軽々とつかまれたまま西の外れの海崖まで運ばれ、真っ暗な底へ向かって投げ出されなすすべもなくゆっくり沈んでゆく定めの者も目にする。何も身につけないままあの底に落ちれば、三つ数えるうちに他の生き物の食料になってしまう。ここは天国のように安全な土地であると聞いていたのに、実に厳しい世界なのだと知った。幸いにして目立たない性分であり、身寄りのいないよそ者である私は、村の騒ぎには触れないようにしてしばらく過ごすことにした。
 
だがある日、昼寝をしていてふと目を覚ますと、自分より小さなやどかりが私を貝殻から引きずり出そうと躍起になっている。道理で頭痛がするわけだ。離せ。
この小さなやどかりは、なぜ私の貝殻を奪おうとしているのだ。そもそもここの連中が欲しがるような趣味の良い貝殻ではないし、これを手に入れてもこのやどかりには到底住みこなせるまい。背負って歩くのもおぼつかなければ、飢えて死ぬのが関の山ではないか。
そう問うてみると、顔を真っ赤にしながら相手は答えた。
「お前が気に入らないだけだ。新しい貝殻を探しまわることもなく、村の戦にも参加しようとしないお前が一人のうのうとしているのはおかしい。俺は傷だらけになりながら家族を守り村の皆と共に戦っているのに、お前が何もせずその殻の中で暮らしているのは絶対におかしい。俺がお前から貝殻を奪ってやる。それで不公平はなしだ」
外敵がほとんどいない天国のような土地に来たというのに、極めて不毛に思われるやどかり同士の争いを毎日見せられてうんざりしていた私は、もういい加減嫌になった。
二対の歩脚を殻のふちにかけて胴体を滑らせると、体は巻貝の渦の軌跡を描いてふわりと外へ泳ぎ出た。予想外の動きに、私の体を引っ張っていた小やどかりは跳ね飛ばされて砂地に尻餅をついた。
「やる」
「なんだって」
「くれてやる。私は殻のないやどかりとして生きることにした。殻がなければ誰からも奪われないだろう。むろん、お前のような奴からも」
「気でも狂ったのか。我々やどかりは、殻がなければ生きられないだろう」
「だがここにはやどかりを食べる生き物はほとんどいないじゃないか」
「そ…そもそも、殻のないやどかりは、やどかりなんかじゃない」
「やどかりじゃなくたって別にいいじゃないか」
「うるさい。なら、ここから出て行け。やどかりじゃないんだから、出て行け」
小さなやどかりは、顔をますます赤くし、欠けた歯をもつはさみを振りかざしてわめいた。殻を捨てたら捨てたで、このままここに居たら私はこいつに腹を切り裂かれるのかもしれない。
なるほど、実は、ここのやどかり達が他人から奪いたがっているのは、貝殻そのものではないのだ。
馬鹿らしい。
 
そんなわけで村はずれまでやってきた。もうすぐ嵐の夜に私をここまで連れてきたあの海流に乗れるだろう。
殻のないやどかりはやどかりではないのか。では一体なんだというのだろう。
脱いだ殻はそのまま置いてきたので、私は次の目的地に着くまでに鯛につつかれてあっさり死ぬかもしれない。死なないかもしれない。死ななかったらそのときは、またそこらで殻を拾って背負うかもしれない。
体が軽い。私の命の重さというのも、せいぜいこの程度なのだ。なにせ、やどかりではないのだから。
殻を背負っていない分、ほんの少しだけ遠くへ流れていけるかもしれない。柔らかい腹を食いちぎられて死ぬまでの間に、見たこともない海藻や岩場の風景を目にすることができるかもしれない。
そう考えると楽しくてたまらなくなった。