公園の脇で、久しぶりにミンミンゼミの声を聞いた。もうこれだけ涼しくなってから土から出てきたわけだから、体力もあまりないのだろう。鳴き声がなんだかとてもスローで、弱々しくて、のびきったカセットテープを壊れかけのモノラルラジカセで鳴らしているようだった。でも奴は全力で鳴いていたと思う。
『納棺夫日記』(asin:4167323028)を読んで一番印象に残ったのは、腐乱した死体にたかっていた無数の蛆虫たちが一生懸命逃げようとしている姿を、著者が「光って見えた」と表現した箇所だった。俺はそのあたりのセミとか石ころとか枯葉とか空を見ていて、この世は無駄も不足も何一つないようにできているんじゃないかというような、なんともいえない思いで頭が一杯になってしまうときがあって、まあ石ころとか空とか枯れちゃった葉っぱとかは命をもった蛆虫の場合とは違うのかもしれないけど、そういうときのモノたちはやはり俺にとって「光って見える」と表現してもいいんじゃないかな、と思えることがある。
って、いま直前の文を読み返してみたらやっぱ駄目だなーと思った。上記の著者が俺を感動させたように、あの不思議な圧倒的しやわせ感をちゃんと人に伝わるように書くには、俺はきっと100万年修行しないと無理だな。誰かに伝えようとして文字にした瞬間すでに超あやしい自称教祖か超おかしいへんな人になってんじゃん俺。
でもこういうときっていつも、なんか俺もうすぐ死ぬみたいだな、って思ったりする。気がするだけでとりあえず現時点では生きてるから単なる当てにならない予感といえるのだけど、普段は超性格悪くてそのくせ臆病者で、色んな事から目を背けたり逃げ回ったりしてたぶん人にも迷惑や心配をかけたりして暮らしているのに、こういうしやわせな瞬間がやってきて世界が光って見えると、なんだか、そういうことも全部オーライだよって言われてるような気がしてくる。なんだこのしやわせ感はー、ああそうか俺もう死ぬとかかなー、一種の死亡フラグなのかこれはー、そのうち天使が降りてくるぞー、ああ地獄とかじゃないんだー、なんだなんだ世界って結構いいとこなんじゃん。と思ったりする。矛盾しているかもしれないけれど、こんないい世界なら死んでもいいなあ、と思う。死にたい、と思うわけじゃない。でも逆に生きたいと思うわけでもない。死んでもいいし生きててもいい。と思う。そして、そういう時ってほんとにしやわせだと思う。
ほらまた超おかしいへんな人の文章になった。もうどーすりゃいいのよこれ。