なんでおしゃべりなんだろう。話すことは尽きない。しかも独り言だ。聞いてくれる人がいないのでとりあえず文字化してネットにのせてしまえ、というレベルなのに、そのレベルはあくまでも意識レベルという意味でのレベルなのであり、アウトプットのカジュアル度を表すそのレベルに反して、内容がどれだけのものかという意味でのレベルはどんなもんかと問うならば、俺にとってはそれらはとんでもないほどのとんでもなさなのである。世間的にはどうか知らん。でも俺のアンテナが世間のアンテナと一致しているのだったら彼らのおしゃべりは映画化決定とか出版決定とかしているはずなのだし、俺ももうちょっと世間とのギャップを感じずに生きていられているはずなのだ。わかった。わかっている。そういう自覚はある。なので「蓼食う虫も好き好きなんだ!」というのを虫の側から蓼に言うというのは、それがいくら熱烈な告白であろうと、蓼からしたらきっとあんまりあり難くない愛のささやきなのだということもわかっている。
だから、世間はどうでもいい。要するに俺が実際目の前に居たら尊敬します!とかいってビールを注いでしまうような、俺にとってそういう存在である人が世の中には結構居たりするのでしやわせだ。ってことが言いたいだけなんだよ!リアルに会ってそうかどうかはまた置いといて。でも顔合わせた場所にビールがあれば大抵しやわせであるから俺にとってリアルというのは酒でどうにかできるという位置づけなのかもしれない。いや、その場はどうにかできても俺の人生がどうしようもないってことだろそれ。リアルってのは世間なんだよ俺。そうか。もういいですビールください。
で、そういう人たちを見ていると、なんとなく、その饒舌の理由がわかるときがある。そうした人々に共通の、ナニカ苦しみのようなものがある。苦しみと言ってしまうのはおこがましい。なぜならば、その人々は、苦しんでいるにもかかわらずそれを進んで自らの身に課しているからである。
「欲望とはナニカ?煩悩とはナニカ?」という問いにもいえることだが、それはその人にとって、苦労や努力といった範疇に属する苦行なのだろうか?それとも、性欲や食欲を満たすがごとき自然的享楽のひとつなのであろうか?
「苦行したい!」と思うのは煩悩なのか?マゾヒストの欲望なのか?すすんで人の犠牲になりたがる人は、わがままなのか?それとも世のため人のためを思うカミホトケの類なのか?
そうした生き仏のような人たちをずっと見ていて、時々ふとしたきっかけでなんとなくその饒舌の理由を理解したような気になって満足感に浸る俺。真実からかけ離れていても別にいいや。だって俺の中の世界ではちゃんと物語になってるから。人間の頭で思いつくようなものはすべてこの世に存在しうるのだ。なんちゃらスキーが言ってたような気がする。俺の脳内のなんちゃらスキーはそう言ってた!だからなんちゃらスキーがリアルにそれを言ったとしても全然おかしくない!!
とにかく、そんな苦行者のつぶやきを聞いているのはとても楽しいのであこがれるけど、多分そういう人たちを自分が追い越すことはありえないのだと思う。ビールだビール!