せすにっき

日記。2019年1月にはてなダイアリーから引っ越しました。2024年もそこそこ適当に生きたい。

読み終えた

国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて

国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて

自分の日記を検索してみたら、この本を読み始めたのは2年前、2007年2月16日のことだった。普段買わない単行本を買ったら持ち歩くのが億劫で家読み用にしたらちっともページが進まず、一日1ページ読むと一年がかり、なんて書いていたらそれどころじゃ済まなくて、結局読み終えるのに二年かかった。しかもいつの間にか文庫版が出てるし。こっちを買ってればあちこち持って歩けて、もっと早く読み終えられたはず。キー。
積読山の地中に完全に埋もれた時期が長かったのだが、著者が逮捕されて東京拘置所へ身柄を送られてからの出来事を描いた後半の部分はえっらく面白く(というかそれより前の政治がどうの外交がどうのという話に個人的に興味がなかったので)、拘置所ゴハンの話とかになると急にのめりこんで読み進んでしまった。っていうか正月はちゃんとお雑煮が出るんだ。でもお屠蘇はないんだよね。あと、やっぱいくらアイスが買えたって冷房なしはヤバいよね。いや逮捕された後の方が居住環境が快適ってのも困るけど。
で、ページを追って一気に話を進めていたここ数日、政治の世界ではなんだか騒ぎが起きていた。野党のえらい人の秘書がお金を受け取ったんだけど、それが法律に反するとして捕まったとか。俺が一番びっくりしたのは、そのえらい人自身が報道関係者の前で「国策捜査だ」という言葉を出したことだった。この前スポーツ紙じゃなくて普通の新聞社のサイトで、っていうかMSN産経なんだけど、器物損壊事件の見出しに「ぶっかけ」って言葉が自然に使われていたのを見てびっくりしたことがあったんだけど、あのときのびっくりに次ぐぐらいのびっくり度でした。あ、ちなみにその器物損壊事件のニュースの見出しはいつの間にか「体液」という表現に修正されてました*1
で、なんだっけ。そうだ。国策捜査。俺は普段政治の世界とかそういうのに興味も縁もとんとないので国策捜査という用語が当の政治家の口からそんなに簡単にポロリと出てくるものなのかどうかという事自体が判らないのだけど、でもなんかすげえ情けない発言だなあ、と思ってしまった。ラスプーチンの本によると、ムネオ-ラスプーチン事件の際、ラスプーチンの取り調べを担当した検察の人は逮捕後三日目にして、「本件は国策捜査だ」とラスプーチン=著者にはっきりと告げている。以降、二人の間では国策捜査とは何か、という議論が時折交わされるようになるのだけれども、とにかく取り調べのごく初期のうちにその検察官が使った言葉を、著者は「私はこのフレーズが気に入った」と書いている。その検察官が言った(とされる)言葉は俺にも結構インパクトがあったので、著者とのやりとりから当該部分のみ取り出して下にメモっておく。

「これは国策捜査なんだから。あなたが捕まった理由は簡単。あなたと鈴木宗男をつなげる事件を作るため。国策捜査は『時代のけじめ』をつけるために必要なんです。時代を転換するために、何か象徴的な事件を作り出して、それを断罪するのです」

「しかし、法律はもともとある。その適用基準が変わってくるんだ。特に政治家に対する国策捜査は近年驚くほどハードルが下がってきているんだ。一昔前ならば、鈴木さんが貰った数百万円程度なんか誰も問題にしなかった。しかし、特捜の僕たちも驚くほどのスピードで、ハードルが下がっていくんだ。今や政治家に対しての適用基準の方が一般市民に対するよりも厳しくなっている。時代の変化としか言えない」

「そうじゃない。実のところ、僕たちは適用基準を決められない。時々の一般国民の基準で適用基準は決めなくてはならない。僕たちは、法律専門家であっても、感覚は一般国民の正義と同じで、その基準で事件に対処しなくてはならない。(以下引用者略)」

この事件自体からもうずいぶん年月が経っているんだけど、今だとどうなんだろね。感覚は一般国民の正義と同じ、とか言ってもなあ。その正義というのをどこに対しても誰についてもまんべんなく発揮してるわけじゃないんだろうしなあ。だから国策捜査って言われるんだろな。
でもラスプーチンの人は多分、国策捜査です!抗議します!っていう抗議、権力との全面対決を第一の目的として裁判に臨んだわけではないんだよね。確かに控訴とかしてるけど、倒したい敵がいる、というのではなく、とにかく真実を記録に残したい、という意志が一本真ん中に通っている。そこが読んでいてすげえなあ、と感じられたし、生き方としては俺みたいな単なるひねくれ者にもすげえ尊敬できる。だから余計に今回の騒動では、当のえらい政治家の人の口から「国策捜査だ」と抗議あるいは批判的な発言がストレートに出てきちゃったことが残念でならないんだ。もうちょっと言葉の選びようがあったと思うんだ。それだけこの本の時とは時代が変わったんだってことかもしれないし、政治家と官僚じゃ言動に差があるのは当然なのかもしれないけど。
あとがきで馬場あき子の「鬼の研究」(asin:4480022759)について触れられていて超うれしかった。ああ、この人はなんていうか、自覚があるのだなあ。みたいな。鈴木宗男氏のことを、自分に嫉妬心がなく、それ故に他人からの嫉妬に対して鈍感、と表現しているくだりがあったけれど、著者自身にもおそらく、周囲の人とは重なり合わない部分が少なからずあって、それが周囲から見ると理解不能なものと映ったのだろうな。

*1:ふと思ったんだけど、ちょっとすりむいたりした時に赤い血が出ないで黄色い汁がにじんでくることってないですか?あれって何液って言うんだろう。一般的な判りやすい呼称がない場合厄介だよね。だってあの汁を故意に商品になすりつけて店に損害を与えたりした場合、なんて報道すればいいんだ?それも「体液」と書くしかないのか?