古代
火葬の歴史は少なくとも2万年前の考古学的記録、オーストラリアのマンゴ湖遺跡にて、部分的に火葬されたマンゴ・レディーの遺骨まで遡る*1。
古来より、土葬(埋葬)や火葬、鳥葬など、遺体の処置を一つに定める葬礼が、入れ替わり立ち代わり、その時々の志向を反映しながら行われてきた。
中東及びヨーロッパでは、新石器時代に土葬及び火葬が行われていたことが考古学の記録により明らかになっている。民族はそれぞれ独自の志向と禁忌を持っていた。古代エジプト人は複雑な輪廻転生理論を形成、火葬を禁忌としたが、これは他のセム語族にも広く受け入れられていった。ヘロドトスによれば*2、バビロニア人は遺体に防腐処理*3を施していたが、ゾロアスター時代にはこの習わしは禁じられるようになったという。フェニキア人は火葬と土葬、どちらも行っていた。紀元前3000年のキクラデス文化から、紀元前1200〜1100年のミケーネ時代*4にかけてのギリシャ人は土葬を行っていた。紀元前11世紀、火葬は埋葬式における新たな習慣として姿を現す*5が、これはおそらく小アジアの影響を受けたためと考えられる。この地域ではその頃から、土葬が再び唯一の習わしとなるキリスト教時代までは火葬と埋葬の両者が存続するが、概して火葬は軍葬と結びつきがあったとされている。
ヨーロッパでは、青銅器時代初期(紀元前2000年頃)のパンノニア平原、及びドナウ川中流沿岸において火葬の痕跡がみられる。ヨーロッパ青銅器時代、骨壷原文化*6を通してこの慣習は優勢なものとなった。鉄器時代には再び土葬が一般的なものになるが、ヴィラノヴァ文化*7やその他地域においては火葬が残存していた。ホメロスは、パトロクルスの葬儀について、骨壷原での葬儀と同様、なきがらは火葬の後に塚に葬られた、と書いている*8。これが火葬についての最も古い描写である。ミケーネ時代にはもっぱら土葬が行われていたのであるから、これは時代錯誤といえる。ホメロスはそれから数世紀も後の、「イリヤード」が書かれた時期の、火葬の普及が進んだ状況を反映していると考えられる。
宗教間、文化間の争いにおいては、葬礼への批判という形を取った中傷がしばしばみられる。その一つが、火葬を生贄や人柱に関連付ける行為である。
ヒンドゥー教やジャイナ教においては、火葬を行うことが許されているだけでなく、予め指示されているともいえる。インドでは、ヴェーダ文明の前段階とされる墓地H文化*9(紀元前1900年頃から)において、火葬の存在が裏付けられている。リグ・ヴェーダには新たな習わしについての言及がなされており、第10章第15節第14句には“火葬 (agnidagdha'-)”にされた、または“火葬にはされなかった(a'nagnidagdha-)”先祖たちがどちらも登場している。
古代ギリシャ及び古代ローマ、いずれにおいても火葬は依然としてよく知られた習わしであったが、普遍的に行われていたわけではない。キケロによると、ローマでは土葬をより古風なものと考えており、栄誉ある市民のほとんど―特に上層階級および皇帝の一族は、火葬に付されたという。
キリスト教は火葬に対し嫌悪をあらわにした。これはユダヤ教の教義の影響及び、ギリシャ・ローマの異教の習わしを廃する意図によるものである。5世紀までにヨーロッパにおける火葬の習慣は事実上消滅した。
ローマン・ブリテン*10では、かつては普通に行われていた火葬が4世紀までに姿を消していた。その後火葬は5-6世紀、移住の時代*11を迎えて再び登場する。当時の火葬においては、薪の上に置かれた遺体に生贄となる動物たちが添えられる事があり、また故人は衣装を着せられ装飾品とともに荼毘に付される習わしであった。この習慣は同時期、アングロ・サクソン系移民の出身地とされる大陸北部に暮らしたゲルマン系の人々にも広く浸透していた。遺灰は後に粘土製もしくはブロンズ製の甕に入れられ、“骨壷墓地”*12に預けられた。この習慣は7世紀、アングロ・サクソン人もしくは初期イングランド人のキリスト教化に伴いまたもや姿を消し、代わって土葬が一般的なものとなった。
中世
火葬はヨーロッパ全域で法により禁じられた上、異教の儀式として行った場合には死罪にさえ相当するとされた。火葬は時に異端者への処罰の手段として利用されたが、行われたのははりつけにしての火刑だけではなかった。例えば、ジョン・ウィクリフの遺体は死後何年も経ってから掘り起こされ焼却された後、遺灰が川に投じられた。彼がローマカトリックの唱える化体説を否定した事に対する死後の罰であることは明白であろう。しかしその一方で、やむをえない事情から大規模な火葬が頻繁に行われていた。戦闘の後や悪疫、飢饉など、伝染病が蔓延する恐れがあった場合である。報復措置としての火葬は現代まで続いている。例えば第二次世界大戦終戦後、ニュルンベルク裁判において人道に対する罪に問われた12名の遺体は、家族の元へは返されることなく、焼却されたのちに非公開の場所で処分された。これはその場所を追悼の地には断じてさせまいという意向に基づいた、とある法的手続きの一環として行われたものである*13。しかし日本では、大勢の戦犯のための―彼らもまた火葬されているのであるが、その遺骸を収容するための―追悼施設が建設を許されている*14。
近現代
1873年、パデュア大学のブルネッティ教授がウィーン万博に火葬炉を出品。英国ではヴィクトリア女王の侍医であるサー・ヘンリー・トンプソンが運動を支え、1874年、仲間とともに英国火葬協会を設立した。ヨーロッパで最初の火葬場が1878年、イギリスのウォキングとドイツのゴータ*15に建設され、また北アメリカではフランシス・ジュリアス・ルモワール博士*16がペンシルヴァニア州ワシントンに1876年に作ったのが最初である。アメリカで二番目の火葬場は1877年7月31日、チャールズ・F・ウィンスローによってユタ州ソルトレイクシティに建設された。また、英国で初めての火葬はウォキングにて、1886年3月26日に行われた。
イングランド及びウェールズで火葬が合法であると宣言されたのは、ウィリアム・プライス博士が息子を荼毘に付したことで起訴された時のことであった。それに続いて1902年に火葬法案が通過し正式な立法が行われた(この法令の効力はアイルランドには及んでいなかった)。火葬法は火葬を行う前に必要な法的手続きを定め、認可を受けた場所のみで行うよう制限を設けた。様々なプロテスタント教会のうちいくつかは“神はボウル一杯の塵と同じように、ボウル一杯の遺灰をも難なく人間として甦らせることができる”という理論づけにより、火葬を受け入れた。1908年版カトリック事典はこれらの努力に対し批判的で、フリーメーソンと関連付け“悪質な運動”として言及している。がしかし一方では“火葬の執行において、教会の教義に直接反する事柄は何もない”と述べてもいる。1963年、教皇パウロ6世は火葬の禁止を撤廃し、1966年にはカトリックの神父が火葬式を執り行う許可を下した。
オーストラリアでも近代式火葬の普及運動、及び団体を創始しようという活動が起こった。オーストラリアで最初の専用火葬場及びチャペルが、1901年、南都アデレードのウェストテラス墓地に開設された。この小さな建物はウォキングの火葬場を模したもので、19世紀の様式から大きな変更も加えられなかったのだが、それでも1950年代後半までずっと稼動していた。オーストラリアにおいて現在稼動している中で最古の火葬場は、シドニーのロックウッド墓地にあり、1925年に稼動を開始している。
オランダでは1874年、火葬の自由を求める会の設立が先駆けとなり、火葬の長所と欠点に関する長時間の討論が行われることとなった。1915年には火葬を禁じる法律に異議申し立てが行われ、失効が決定した(オランダで最初の火葬場が建設されて2年後)が、火葬が法的に認知されたのは1955年のことであった。
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*1:実は4万年前のもの、ということで研究者の見解は大体一致しているみたいだ。同じマンゴ湖で発見された男性の骨と同時代。参考:http://uninews.unimelb.edu.au/view.php?articleID=394
*2:紀元前400年代の、ギリシャのえらい歴史家の人らしいよ。参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AD%E3%83%89%E3%83%88%E3%82%B9
*3:自分の中でエンバーミングという単語がまだ目新しすぎて、どうも昔の慣習についてこのカタカナ言葉を使う気になれないんだよな。カタカナってだけで、この概念自体が新しいものだと読んでいて自分も勘違いしそうで
*4:原文:“Hypo-Mycenaean era” Hypoってどう訳するのかわからん
*5:最初は「?」と思ったけど、火葬した後遺骨を「埋める」んだから確かに埋葬だよね。土葬と埋葬がどうも自分の頭の中でごっちゃになってる
*6:http://en.wikipedia.org/wiki/Urnfield_culture
*7:なんか、鉄器時代初期にイタリアで栄えた文化らしい。参考:http://www.britannica.com/EBchecked/topic/629128/Villanovan-culture
*8:参考:http://www.aurora.dti.ne.jp/~eggs/iliad-battle05.htm あとこれも http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%A1%E3%83%AD%E3%82%B9%E5%95%8F%E9%A1%8C
*9:HはハラッパーのHらしい。参考:http://pubweb.cc.u-tokai.ac.jp/indus/3_1_02.html
*10:イギリスのうち、ローマ軍が支配していた地域らしいよ!by 英辞郎on the Web
*11:アングロ・サクソン人がやってきた七王国時代のことかなあ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E7%8E%8B%E5%9B%BD
*12:urn cemetery
*13:ここ自信なし。元フレーズ:as a specific part of a legal process intended to deny their use as a location for any sort of memorial
*14:このあたり不勉強なので調べてたらこんなの出てきた http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a154065.htm
*15:ドイツの、というかこの頃はザクセン=コーブルク=ゴータ公国っていう公国の首都だったそうな
*16:Francis Julius LeMoyne 参考:http://en.wikipedia.org/wiki/Francis_Julius_LeMoyne