せすにっき

日記。2019年1月にはてなダイアリーから引っ越しました。2024年もそこそこ適当に生きたい。

晩飯

鉄鍋で脂身をジュッと溶かして肉を焼き、というわけじゃなくて、土鍋でたっぷり目の煮汁を作って野菜や肉を煮たので、すき焼きじゃなくて牛鍋と呼んだほうがそれっぽいなあと思って牛鍋と書きました。それっぽいとか言いながらすき焼きと牛鍋の違いがいまいちよくわかっていません。
でもひさしぶりにんまかったので、生卵を2つも使ってしまった。生卵が苦手な人が昔の知り合いにいて、口に入るときのあのドゥルっとした感じ、「ドゥル感」がイヤだと言っていた。ドゥル感というのはその頃から牛丼には必ず生卵をつけていた俺が勝手に呼び習わしていたもので、文字通りあの半液体の生卵が上唇と下唇の間を通過して口腔に達するときの擬音的表現であり、実際にそういう音がすることはないにも関わらず我々の粘膜がそのひんやりとした物体を受け入れる際にはその重い感触が顎骨を響き抜けた後に内耳の諸器官に達しまるで冬の曇天に一筋の稲光が駆け上がっていくような衝撃を脳細胞に与えるのである。
ドゥル感のうち、少なく見積もっても8割以上が卵黄ではなく卵白によるものであり、したがってドゥル感をこよなく愛する拙者がすき焼きや牛鍋の具を溶き卵につけて食する時には卵黄を少し崩す程度にかき混ぜるのみであり、なかでも最初の一口、まだまったく牛鍋の煮汁が混ざりこんでいない生卵の中へ牛肉を一切れ、箸でしっかりと挟んだまま浸し、そこで一瞬だけ箸を持つ手を緩めて器の中へ牛肉を放す、そしてその直後に再び牛肉が生卵の器から引き上げられ、その薄赤みを残した飴色の肉はなんとも新鮮で神秘的で分厚い、それでいて限りなく透明に近い卵白のベールに包まれており、それが拙者の口の中へ一直線に運ばれるときに奏でる圧倒的なドゥル。この「最初のドゥル」が最高なのでドゥル。卵が新しければ新しいほどに卵白の腰は強くドゥル感も素晴らしいが、その最初のひと口にて消費されてしまう卵白の量も多いがために、ドゥル感の強さと持続性が両立しがたいという点がまことに口惜しい。つまり最初のひと口めの強いドゥルに心底満足したあとで春菊や麩やネギも食べなくてはと思い至り箸でつまみ上げて溶き卵の器に浸そうとすると、もうそこには卵白の中でも水っぽい部分や、だらしなく崩れてしまったあとの卵黄、冷めてしまった肉汁などの混合物しか存在しておらず、私の愛するドゥル感はすでに残っていないのだ。これは非常に嘆かわしいことであり、今日は我慢できずにとうとう、ドゥル感劇場第2幕を上演することとあいなった。つまり食事の途中で台所へ立って冷蔵庫のドアを開け、卵をもひとつ持ってきたのでござるよ、の巻。ニンニン。いいえ酔ってません。