中学校の卒業式が終わって数日後、春のうららかな日に生まれて初めて一万円札というものを親から渡され、友人たちとディズニーランドへ行った。彼らと離れ離れになるのはそれは寂しかったが、小さな地方都市の住宅地にある市立中学に通っていた生徒らは皆近所に住んでおり永遠の別れというわけでなし、それにもうしばらくすると始まる未知の高校生活への希望の方が心の中では大きく大きく膨らんでいた。振り返って立ち止まるほどにはたどってきた道のりは長くなく、前を向けばまだまだ行く先のわからない、それでも明るい道が開けているように見える。そういう年頃だったし、一緒に行った皆がそうだったろう。行きの電車ではたわいもない話に天地鳴動のごとく大騒ぎしたし、ビッグサンダーマウンテンの順番を待つ3時間半もまったく気にならず、自分たちやクラスメイトの進路、中学校での嫌われ教師の悪口などで盛り上がりすぎてあまりの興奮になぜかアニメ声でしゃべりだす輩も居たし、シンデレラ城では誰がナビゲーターの女性に一番笑える突っ込みを入れられるかということを競ったりもした。
この日、ゲームコーナーのようなところにあった占いマシンかなにかで引いた一枚のカードが、今も手元にある。どういうマシンだったのかももう記憶の底にうずもれて分からなくなっていて、黄ばんだ厚紙に印刷された青い文字はこう語っている。
マウンテングラニーの予言
15
あなたはバラ色の人生を歩むという星の下に生まれています。しかし今までの人生はそのようではありませんでした。それはあなたが真の友人ではなくただあなたを利用しようとする人々を信頼したからです。幸せになりたいなら賢くなりなさい。人生の節目が近づいています。チャンスをのがさないように。黒髪で宝石を着けている人には注意しなさい。真の友人ではありません。人生の後半に幸運がやってきて、かなりの財を手に入れるでしょう。財産を管理するのに多少苦労するかもしれません。親類はむしろあなたの利益に反します。15があなたのラッキーナンバーの一つです。
友人に真偽があるという考え方にいささかショックを受けながらも、これから新生活が始まる自分にふさわしいような予言の内容であった。バラ色の人生を歩むと言われて気分を悪くする高校生はあまりいないと思われるが、私も例外ではなくラヴィアンローズに心奪われ、したがって書いてあるカードの内容すべてを真実として受け止めようと考え、大事に大事にその厚紙を財布にしまって持ち帰り、そのあとは通学定期を入れるパスケースに収めて毎日毎日肌身離さずお守りのように扱っていた。
人に見せたことは一度しかなかった。付き合いだした相手に見せた。きっと「この占いの通りに今私は幸せです」とアピールするつもりだったのだろう。相手は「賢くなりなさい、って、これ以上賢くなってどうするの」と笑ったのだが、私はその言葉を聞いて悲しくなった。私はちっとも賢くないからだ。
生まれてから十数年という年月が長いか短いかは別として、そのあいだじゅう向き合わざるを得なかった自分自身の性格と頭の程度は自分自身が一番身にしみてわかっている。周りからの扱いを見てきて、私はたまたま通信簿の点が良いだけのただの木偶の坊であり、学校生活あるいは社会生活においてもっとも重要な人付き合いという分野においては非常に苦手の部類に入るがために、無闇に迎合してお人良しとみなされ我の強いタイプの人間に振り回されるか、あるいは極度に交流を避け変わり者と呼ばれ教室の隅で本を読んでいるかの二極の間を高速で往復するピンポン玉であり、その往復の速度こそ緩むことがあるにせよ、これからもずっとこの性格なのであろう、そしてそれは「賢い」という褒め言葉には決してふさわしくないものであろうと確信していた。そんな自分には、黒髪で宝石を着けた友人を避けろというアドバイスは受け入れられても、賢くなりなさい、というお告げを守ることはできない。自分の場合はいくら勉強しても、点が取れるだけで賢くはなれないし、今目の前で微笑んでいる相手の存在がこのカードのお告げのような奇跡であったとしても、この奇跡を本当に自身のものとするには、自分の人生を真にバラ色にするには、「賢く」ならなければならないのだ、それは自分がどうあがいてもきっと根本的に無理なのだと気付いて絶望したのだった。
そんなことを、棚を整理していて出てきたカードを見ながら思い返していた。もちろんその相手とはもうとっくのとうに別れ、私は賢くもなく今でもしょうもなく生きている。どうして賢くなるために努力しなかったの?と問われれば、私は「無理」と即答するだろう。自分が思うようなバラ色の人生などありえないと、自分でわかっていたのだ。あのカードに書かれていたこと自体はただの奇跡であり、少なくともその奇跡を起こすか起こさないかを決めるのは本人の意志であった。そして私はどうしたかというと、奇跡が起こる前に舵をいっぱいに切ってそれを全力で回避するという行動に出たのであり、それは賢くない私にもっともふさわしい行為であったと今ではどこか誇りにさえ思っているのであった。