せすにっき

日記。2019年1月にはてなダイアリーから引っ越しました。2024年もそこそこ適当に生きたい。

読んでる

父の帽子 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

父の帽子 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

森茉莉が使う、「パッパ」という言葉が好きだ。俺は自分の親をパパ、ママ、と呼ばずに育ってきたので、自分の父親をもしそう呼んでみたならば、と想像するだけで自分の声に鳥肌が立ってしまうのだが、森茉莉の「パッパ」はとても甘くてもろい、バターの香りでいっぱいの焼き菓子のような響きだ。閉じた唇が軽く上下に「パッ」と弾んで、もう一度軽く「パ」。パ、パ、パッパ。パ、パッ、パ。パ…おっとこれ以上はロリータ。
不思議なのは「パッパ」の3文字を目にして俺が思い浮かべるのが、輝くしやわせに満ちた日々を過ごす幼き森茉莉が父に対して見せるけがれのない笑顔ではなく、もうその頃の父親よりもずっとずっと年齢が上の、ひとりの老婦人の貌である*1、ということなんである。いつもその音は、彼女の、皺が細かく寄った唇から発せられる。

「パッパ、お話して」

「パッパ」が出てくるたびに俺の脳内には、時にリキュールで湿り気を帯びた、時には紅を薄くひいた、年老いた彼女の唇の、軽い破裂音とともに薄く開いた瞬間の映像が飛び込んでくる。つまり俺は森鷗外とその幼き愛娘という構図を常に回想を通して受け取っている、という意識を失うことがない。
そうして幼き日の記憶を語る唇は、いつでも幸福そうに微笑んでいる。心からそう思える。思わざるを得ない。幼き日々をそういう風に振り返れる、それを他人に伝えることができる。それだからこそ俺は彼女の文章が好きなのだと思う。

とか綺麗に書いてみたら自分でむずがゆくなってきた

あと食べものの話がいっぱい出てくるから好きだ。どれも超うまそう。刺身を食べるとことか、箸の先で透けるような鯛の身の白さまでが目に浮かぶようだ。

おおそうだ

いわゆるブンガク作品というものを片っ端から知らない俺だが「高瀬舟」という話は教科書で読んだことがある。自殺しようと喉を切るが完遂できない弟の息の根を、止めてやった男の話だった。*2
今日読んだくだりには、娘茉莉から見た「高瀬舟」について記されていた。授業では確か安楽死の是非とか人間にとってしやわせとは、とかそんなかんじのまとめ方をされていて、ふーんと思っただけなんだが、娘からすれば、その話はもっと切実な、父鷗外の心の根っこから地面を割ってずんずんと生えてきたなにかだったのかもしれない。
幼かった彼女は5歳のときに百日咳を患い、生死の境を彷徨った。二歳の弟ははかなくも命を落とし、その死がすでに重い影を人々の心に投げかけていた。そんな中で苦しみ衰弱しきった彼女も医者からあと24時間の命と宣告される。彼女の語るところによれば、そのときあることが行われようとしていたという。
それが所収のエッセイのうちの一つのタイトルにもなっている「注射」だった。ひとつめの死に打ちのめされていた家族が選ぼうとした道というのは、今目の前で苦しむ娘を、苦しみから早く自由にしてやることだった。
結局その計画は遂行されることなく、彼女は快復に向かった。しかしこの事件を彼女はのちに、どんなふうにして知り、それをどう思ったのだろう。そして「高瀬舟」を読んだときにはどういうふうに感じたのだろう。それを彼女はどこかで書いているのかもしれないけれど俺はまだそれを知らないし、仮に今日読んだ文章の中にそれが語られていたのだとしても今の俺にはどうしてもそれを読み取ることができなかった。唇の奥に、喉よりも心よりももっと奥の方に、そっと隠したままでいるんだ、と思いたいのかもしれない。「パッパ」と軽く破裂音を響かせるあの上下の唇の奥に。
「注射」のあとに続く「半日」という文章の終わりに彼女はこう書いている。

「公」と「私」との別は、どれ程悲しくてもつけなければなるまい。

*1:といっても彼女は若いときから書いてたんだけどね。どうも俺の中でのイメージが「かわいいおばあちゃん」で固定してしまっていていやはや

*2:ちなみに「舞姫」は高校の教科書で読んでみんなでトヨタローに非難ゴーゴーしていた。