せすにっき

日記。2019年1月にはてなダイアリーから引っ越しました。2024年もそこそこ適当に生きたい。

ふと考えた

昔読んだマンガにテレパシーってのがよく出てきた。マンガなので表現としては普通に音声で交わされるのとは違う形状のフキダシの中に普通にセリフを入れる、という形式なのであったが、テレパシーというのは言語を介さずに直接に意思の疎通を行える超能力であると俺は理解してきた。
しかし今、日本語って難しいなあと思い返してこのテレパシーというものについての俺の考え方をおさらいしてみた結果、テレパシーというものが本当に俺の考えた通りのものであるとするならば、それは人間同士のコミュニケーションとして本当に役立つものなのだろうか?という疑問がわいてきた。もちろん、離れたところにいる相手に今自分の目の前で起こっている事件がなんであるかを正しく伝えることができる、つまり事実の伝達という点では非常に有用であるだろう。(俺の概念通りであるならば)写真を撮る手間もない。つまり自分の視覚データがそのまま相手の脳に送信されるからだ。この曲いいんだよ、ちょっと聴いてみてよ、とか、今日買ったこのケーキ美味いんだよ、なんてときにも良いな。聴覚データや味覚データがリアルタイムに以下略。まあほんとにこういうことが可能だったら、ネット普及につれて問題になっているのとは比較にならんほど映画業界とか音楽業界にダメージが、ってかんじもするけど。
脳内のイメージがそのまま相手に伝わるのなら、外国の人ともコミュニケーションがとれて楽しいかもしれん。いや、楽しいかどうかはよくわからん。お互い良く思っていない人とテレパシーで会話したら、自分の抱いていたネガティブな感情が直で伝わっちゃって、結局喧嘩になっちゃうのかなあ。あと、ダジャレとかって、その言語を理解する人じゃないと笑えないよね。これはテレパシーでは伝達不可能なのかな。だとしたら、万能じゃんと自分が思っていたテレパシーにもやっぱり弱点はあるってことか。
それからそれから、自分の感じたことを言語を介さずそのまま相手に送信できたとしても、やっぱりそれは事実をそのまま伝達するということとはちょっと違うのかな、と思った。たとえば今お風呂に入ろうとしたらむちゃくちゃ熱かったよ!と誰かに伝えたとして、そのお湯は本当に熱かったのか?という問題が残る。その人が江戸っ子で熱いお湯が好きで、なおかつそのお湯は50度もあったというならその風呂は熱かったというのは事実かもしれない。でも、その人がぬるいお湯を好み、普段は36〜38度のお湯に浸かっているので、一般的にはややぬるめとされる40度のお湯でも熱いと感じたのかもしれない。この場合テレパシーの受け手はどう感じるだろうか。受け手の「熱い!」が伝わったことで相手は「そうか、このお湯は○○度くらいだったのか」と考えるのであれば、その人が普段どのくらいの温度の風呂に入っているのかによって、実際に送り手が入った風呂の温度との間にズレが生じる可能性が大きい*1。逆に受け手の実感とは無関係にその風呂の温度が正確にテレパシーの受け手に伝わるのであれば、送り手の「この風呂熱いよ!」という感情はうまく伝達されないのではあるまいか。この人が今風呂に入った、とテレパシーで伝えてきた。とわかるだけ。それは果たして完璧なコミュニケーションといえるものであるのか。
風呂の温度が正確に伝わり、なおかつそのお湯を送り手が「熱い」と感じていることも受け手に伝わる、ということであれば俺の心配はまったくの杞憂であるのだが、そこんとこどうなんすか。だれに聞いてるんだ。

っつうか、

完璧なコミュニケーションというものがそもそも存在しえない。

*1:でもよく考えたら「お風呂が熱かったよ!」って相手に話す場合だって、正確なお湯の温度は伝わらないわけだから、これは言語による伝達と結局おんなじだな。