せすにっき

日記。2019年1月にはてなダイアリーから引っ越しました。2024年もそこそこ適当に生きたい。

ぶちこわし晩飯

  • まわる寿司

本日昼休み、ついに銀行に行った。昨日の4円オーバー事件で既に敗北感を覚えていた俺の頭からはもう根性モードだとか節約成功とかそういう言葉は消えかけていた。重ねて、急に入った仕事をミスッてしまい、自業自得ではあるのだが昼休みの時間がいつもより大幅にずれ、空腹を通り越し飢餓感と疲労感が俺の全身をむしばんでいた。
もういい、もういいんだ。昨日で戦いは終わったんだ。
俺は決心して、近くの喫茶店へ足を運び、滑り込みで945円のランチを注文した。
その後も今朝の失敗が響き仕事は長引いた。自分の不注意を呪いながらしょぼつく目をだましだまし作業を続ける。残業すれば難なく終わる程度の量ではあるが、だらだらやっていればいるほどきつくなる。ラストスパートをかけてキリをつけると終業時間。燃え尽きた一日だった。
冷蔵庫の中で白菜が待っている。そう思いつつもついつい俺は回る寿司の店に足を向けてしまった。I'm going off the rails on a crazy train.オジーさんの歌が頭の中をよぎっていく。
ヱビスが飲める回転寿司の店として気に入っているこの店で、つまみにあんきもを頼み、カウンターに肘をついてため息をつく。ああ、とにもかくにも今日が終わった。せいぜいまったりしようじゃないか。
だが、おさかな大好きおすし大好きな俺がどうしてこの店を気に入っているのかというと、それは今書いたようにヱビスビールを置いているという一点に尽きる。このことについて改めて考えてみると、ある絶望的な結論が導き出された。
この店の寿司はうまくない。
いやそんなばかな、ただ単に俺の選魚眼が曇っているために日本クレッシェンドのベルトコンベアを滑っていく皿の中でも干からびた帆立や焦げたサーモンあぶりやガムのようなエンガワを取ってしまっているだけなのだ、と否定しようとして、回っていないカワハギを板前に頼んだ。肝を食べるならカワハギは今が旬だ。不味いはずがない。2杯目のヱビスとともに思う存分味わうがいいー!(鹿賀丈史の声で)
だがやってきたカワハギはなぜかうまくなかった。
その後もことごとく裏切られた。コハダ、味がしない。太刀魚、ぱさぱさしている。カンパチ、その場で握ってもらったのに乾いている。
回転寿司に何を求めているのだ、と言われても、同じ回る寿司の店でも涙が出るほど良いネタを出す店、ネタがいまいちでも手の加え方が絶妙でうならされる店はいくつも知っている。やはりこの店はアレなのだ、悲しきかな、俺の趣味にはとことん合わないということなのだ。家族連れにも利用しやすく内装やサービスも良いのだが、肝心の味がそれを裏切っている。皆でワイワイリーズナブルに楽しむのならいいのだ。一人で飲みながらじっくり味わう店では到底ありえないのだ。
でもね、世の中の回る寿司ってのはだいたいそういうもんなんだよ、君はつまり場違いなのだよ、という声が脳内に響き、打ちのめされながら見上げたコンベアの上を鳥の唐揚が滑っていった。ここで俺の中の何かがポキリと折れた。俺は絶望の底からその唐揚*1に手を伸ばし、小皿の上に取り放題のガリを大盛りにし、そして何杯めかのヱビスをバイトの女子高生に注文した。
家にたどり着くと買い物袋にはタバコが何箱も入っていた。おぼろげな記憶をたどってみると、どうやらコンビニや自販の前を通りがかるたびに一箱ずつ買い求めてきたようだ。今日使った金額が今までの根性モード何日分に相当するのか、考えるだけで頭の中が真っ暗になっていくのだった。

*1:これも味がしない。この店は魚以外のものもやっぱりうまくないことが判明。だがしかし、あんきもは自分で蒸して味ぽんかけたほうがうまい、とか、唐揚は自分で生姜にんにく醤油に一晩漬けて小麦粉まぶして揚げたやつのほうがうまい、とか、そういう文句のつけ方をして一体なんになろうか。なら家に帰って自分で作って勝手に食え、と思われるだけではなかろうか。俺がどうして金を払って店で食うのかと問われれば自分で作る手間、片付けをする手間を惜しんでいるからというのも少なからぬ理由のうちに入るのではなかろうか。ならば油をあたためる手間もなく目の前に唐揚が現れること、取って食った後汚れた皿を誰かが洗ってくれることに対してもっと評価がなされるべきではないのかという思いも浮かんでくるのではあるが、どうもこの点俺はとても器の小さい人間であるらしい。普段自分がしている仕事に対して他人が不当に低い評価を与えたならば俺はきっと烈火のごとき怒りを覚えるに違いない。違いないのだから他人の仕事に対して必要以上にわがままを言うものではないはずである。しかしながら、しかしながら、そのように一応プライドを持っている仕事でもって得たなけなしの報酬を使って得られる対価であるところの手間なしありがた晩飯の内容がこれであるということに納得がいかないということにやりきれない思いを抱くものである。近頃の食品偽装のニュースに対する国民の怒りというのは、金を出して得たものが、実は自分が得たと思っていたと思しき価値を下回っていた、貼られたブランドがニセモノであったというある種の共同幻想裏切られ感によるものであり、ひいてはそれらの幻想が暴かれることによって自分たちの日ごろの労働の価値が間接的に否定されたのだということに想いが至ったためだと今電波が耳元でささやいた。つまりそれは、「いくら夢みて頑張ってみたって、おまえの人生は、お前の価値はせいぜいこんなもん」という声だ。いい加減自覚せよ。俺は泡沫だ。吹けば消え去る塵埃だ。でねえ、ちょっと思ったんだけど、働かないで生きていくということは、そういう状況に対して、「自分の価値を確認するために他人の生み出す価値を参照する必要がない、それゆえに他人の労働の質に対してなんら期待をする必要もない、ゆえに失望もない」という点で「勝ち」なの?