- 作者: 武澤秀一
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2006/06/01
- メディア: 新書
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著者は、梅原猛が「隠された十字架」で挙げた中門の謎、中央に柱が立っていることについての解釈を「誤認」と退ける。梅原氏の言う、火災のあと再建された法隆寺が聖徳太子および一族の祟りを恐れた者たちによって造られた鎮魂の寺であり、中門の中央に立つ柱は怨霊を閉じ込めておくための通せん坊である、という内容のいわゆる「怨霊封じ」説にくみすることはできない、としている。死のイメージで彩られている、と梅原氏が見た法隆寺の領域を、著者はすがすがしい「聖域」であり、怨霊封印のイメージとは相容れない、という。うーむ、そういわれるとなあ、となんとなく納得してしまう優柔不断な俺。
中門の中央に柱が立つ特殊な構造については、いくつかの目的を同時に満たすためだったことを示唆している。ほほーっと思ったのが以下の二点。俺のとほほな読解力をもって要約したのでなんか勘違いしてたらすいません。
- インドの寺院でみられるような「めぐる」拝礼が行われるにはむしろ自然である。左が入口、右が出口、と厳密に定められていたわけではないだろうが、人がその拝する対象物、対象空間を目にして一定の方向へと周回するのならば、この構造は理にかなう。
- 敷地が広大なため、門は左右に配された塔と金堂それぞれに南面して一つずつ造られる可能性もあった。がこれらをひとつにまとめたため入口が分かれている。
二つ目の説は特に面白いなあ。これより前に造られた寺は、焼失する前の創建法隆寺を含め、その多くが南北軸に沿った設計になっていたらしい。南側から門を入ると塔と金堂が縦に並んでいる、という構造。それが日本の土着的、伝統的な感覚によりなじむようにか、あるいはもっと別の造営者の思惑によってか、塔と金堂が横に並んで東西方向に広がりを生み出しその中にある種の平衡、静寂といったものを見出そうとするきわめて日本独自色の強い様式が生まれつつあったのだ、ということらしい。
で、そのさきがけともいえるのが舒明天皇発願の百済大寺で、塔と金堂がしっかり東西に並んでいる。奈良文化財研究所の復元案によると、発掘によって存在が確認されている金堂前の門のほか、その西側に建つ塔の前にも門があったのではないか、とされているらしい。うおおなんでそんな想像ができるんだ!!研究者の人はすげえええ。で、門が別々だとどうかなあ、中門はまんなかに一つ、ででんと大きいのを造ったほうがよくね?てんで一つにまとめてみたらこうなった、ってのが法隆寺の中門ってことでおk?
と、色々納得させられたり、新しい知識を得たりしてとても楽しい時間を過ごしたのでありますが、しかし読み終えた今、俺はこの本に掲載されている中門の写真を見るとどうしても「男湯」「女湯」を連想してしまうのですが……あれは中に入ると間に壁があるからまた違うか。ああバチ当たり。
あと、「中門中央の柱は通せん坊である」というウメハラ説をかなり強く否定している本ではありましたが、柱の意味の解釈とか法隆寺に対してもっているイメージの違いとかの個々の論では正面からぶつかるにしても、法隆寺が新しく建てられたその目的については、両者そう違ったことを言っているわけではない、というかむしろ同じことを述べているんじゃないかな、と思った。梅原説によるならば権力者は太子一族の祟りを恐れた、と言えるし、武澤説であれば彼らは人々の太子信仰が自らの土台を蝕む方向に進むのを恐れた、ということになるのかな。「怨霊封じ」でも「ほめ殺し」でも、権力者が自らを正当化しその基盤を揺るがぬものにするために行ったという構図には変わりがないような気がする。