せすにっき

日記。2019年1月にはてなダイアリーから引っ越しました。2024年もそこそこ適当に生きたい。

ガーゼ

先日入手した新しいタオルケットは、裏側、つまり自分の体に当たる側がガーゼでできている。これが非常に心地よく、暑い夜も冷房を効かせた夜もこれのおかげで去年とはまた違った気持ちよい眠りの助けになっているように思う。
ガーゼといえば小さい頃、マイマザーが病気の子供のために作ったりんごジュースを思い出す。ジューサーやミキサーがまだうちになかった頃だ。俺は物心ついてからは熱を出して寝込むこともほとんどなかったから、ジュースは大抵俺ではなく弟の口に入れるためのものであったが、俺はそのコップ一杯の液体が作られる光景をとてもよく覚えている。
台所で母は丁寧に丁寧にりんごをすりおろし、それを白いガーゼで絞って濾した。ぎゅっと両手で絞って濾した。いつも荒っぽい動作と口調で臆病な子供である我々をビビらせていたマイマザーが、ひとつひとつの動作に祈りをこめるかのように丁寧に丁寧に、りんごとおろし金とガーゼを扱っていた。そしてコップに一杯、金色のジュースができた。
弟はやがてすくすくと、ひょろひょろはしているもののでっかくなり、もうりんごジュースの世話になることもなくなった。ガーゼもやがて台所から消えた。
やがて別のガーゼが日常の中に現れた。母親は一時刺繍に凝り、箪笥の小物入れの中は色とりどりに縁をかがられた、白いガーゼのハンカチで埋め尽くされた。友達がサンリオのキャラクターのかわいいハンカチや、見るからに上等なレースのハンカチをポケットから取り出すのに、自分はいつもガーゼのハンカチだった。「お母さん、器用だねえ、うらやましい」と一応ほめられはするのだが、自分はただひたすらに周囲と比べてその素朴な、一種野暮ったさを含んだそのガーゼのハンカチの厚みを、うとましく思うことがあった。が、手を拭うとき、額に当てるとき、そのなんともいえないあたたかみを否定することはやはりできなかった。
あれからずいぶんと時が経ち、ガーゼというと医療用品→包帯あやなみさん萌え!という連想とともに消毒液の匂いが脳内に立ち上るしょうもない自分になって久しい。いまだにそう、ということは俺は10年くらい成長していないのだろう。ほんとにしょうもない。しかし俺の中でガーゼといえばやっぱり原点はマイマザー、ということを忘れてはならないのだなと今日、新しいタオルケットを見ていてしみじみ思った。ガーゼは俺の狭い世界の中にも、形を変えてあらゆるところに存在してきた。りんごの匂い、学校の手洗い場の石鹸の匂い、消毒液の匂い、金色の透明な果汁、抜けるように青い空色の刺繍糸、薄い黄色のタオルケットの裏地、色んなものとガーゼが離れがたく結びついていて、それらはやがて俺の眠りの中で、母という文字に溶け込んでゆく。この世の母とはどんなものか、と問われたら俺はもしかしたら、ガーゼと答えてしまうかもしれない。