- 作者: 幸田文
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1957/12/27
- メディア: 文庫
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しかし不安か?と思い返すと実はそんなことはなくて、主人公の梨花の眼のよさ、物事の勘どころをたちまちつかんで機転を利かせていく、あるいは昔の経験を今の自身の体にひょいと引っ張り出して周囲のくろうとたちをはっとさせてしまう、そんな活躍ぶりに惚れ惚れしていた自分はむしろ物語が終わってしまうのを非常に惜しく思いながら最後のページをめくったのだった。
終盤、置屋の主人はその地域あげての演芸会のため、三味線を抱え清元の稽古に励む。梨花は朝に昼にはたらきながらその調べを耳にするが、どうにもうまく聴けたものでない一節があって特にそれが心にかかっていた。しかしそれがある朝突然吹っ切れた。その微妙な違いを梨花の感覚は察知したのだが、「しろと」の女中であるはずの彼女にどうしてその違いがわかるのかと、主人から逆に問い詰められる場面。このくだりが印象に残った。
「さ、どこよ。……いったん云い出しといて卑怯だわ。」しろうとに何がわかるかと嵩にかかりながら、結局こちらが何も知らないと確かめておいて圧服させてやろうという、えらがっている気持ちがびりびりと響いてくる。ひとに聴いてもらうために唄うのだろう。唄う以上は女中であろうがなかろうが、糸道の明いてる明かないにかかわらず、聴いてもらうほかあるまい。女中さんだって切符を買って劇場へ納まればりっぱなお客だ。一双の眼があり二ツの耳があり、千人が千人万人が万人、自由な鑑賞をしていい。人前で唄う気ならしろうと・くろうとの区別をつけて聴かせるのではない。
清元ってなんだ?な俺だけども、思わず太字で強調とかしてしまうのであった。