せすにっき

日記。2019年1月にはてなダイアリーから引っ越しました。2024年もそこそこ適当に生きたい。

短編集をのろのろと読んで読み終わった

ゆっくりコーヒーを飲みながら読破すべし、と決めておいたら、なかなかそうした時間が持てない。家に帰ってきたら即酔っ払うという罠。
冒頭にあった表題作に圧倒されたためか、うわーすげえな、とばかりに淡々と展開されるバイオレンスの連続に自分の貧困な想像力が及ばなくなってしまったためか、その後の物語たちにどうも没入できぬまましばらく進んだ。が、中盤に差し掛かってから終わりに近づくほどじわじわと良くなってきた。「鈍いナイフで」の主人公、与え続け奪われ続けやがてむさぼり尽くされる存在であると自らを意識することでしか自分を生きられなかった人間、いいね。マリファナ屋敷で壊れていく男の話「ガラスの小鬼が砕けるように」なんか、いいねいいねもう。途中数箇所で鳥肌立った。
最後を飾る「少年と犬」。この作品名が、本を手に取ったときに表題作の次に気になっていた。10年以上前から飽かずに聴いているとあるバンドのとあるアルバムの中には少年と犬が登場する曲があって、もしかしてもしかしたらここから題材を取ったなんてことがあったりするのかもしれない、などとひそかにわくわくしていたのだ。
自分のように視野も行動範囲も狭い人間は、自分では見渡しきれない広い世界の中に散らばった、つながりなどないと思っていたいくつかの事柄を結びつけるか細い糸を見つけただけで、体がふるえるような不思議な歓喜を覚えることがある。その快感を求めてたまには自ら色々と調べ始めたりもする。しかしそれらの糸のほとんどは全くの的外れ、ただの思い込みであり、度を越したその習性を自分は関連付けの病、と呼んでいる。さながら、自分の頭の中で作り上げた空白だらけの不完全な地図を、精巧に作られた地球儀の上からべたべたと汚く貼り付け、その上からお子様ランチの旗を立てて喜んでいるようなものである。世界にとってはまさに迷惑というほかあるまい。少年と犬が出てくる歌、少年と犬が出てくる小説なんて、世界中に星の数ほどあるだろう。
だがしかし。そんなことよりあれだ。そもそも俺は、十年以上聴き続けているあのアルバムの歌詞の内容を理解していない。少年と犬が出てくることしかわからない。発音だけをまねて、その歌自体を歌うことはできるのに、その不思議な英語の歌詞の肝心なところが俺の頭の中でほとんど形を成さない。
そんなわけで、あのアルバムに、愛について語ろうとする綺麗でおぞましい食いもの、クィラ・ジューンが登場するのかどうかも、俺にはついにわからずじまいなんである。(たぶん、登場しない。)