- 作者: 藤原新也
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1990/06
- メディア: 文庫
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歴史や時代の流れ、色というものに無頓着な自分は、古典やフィクションを完全に「おはなし」として読むしかない視野の狭い人間である。だからこういう、一昔ふた昔前に書かれた、その時代の空気についての文章に対しては、もう本当に「マンガ日本の歴史」のように、ほほーそうだったんだー、うわーおもしろいなー、などという感心のしかたしかできずに、我ながら本当にもったいないことをしているなと思う。この文章が書かれた頃の自分はどんな毎日を送っていたか。どんなニュースがテレビを賑わせていたか。どんな事件を人々は語ったか。ひとの生活というのは年齢とともに絶えず変わってゆくし、そのうえ、その中であっぷあっぷしながらやっとのことで生きていると、そうした生活が時代の中でどう位置づけられるかというのもまた流動的すぎてわからなくなる。
だから人は、波間に漂うブイを探すのだと思う。海上のよごれたやさしい青に溶け込むことができずに、目にしみるような点となって漂うブイを。
宮前平の家の写真が一番印象に残った。
磯村建設という会社のテレビコマーシャルを覚えている人はいるだろうか。自分が子供の頃、いつも見ていた番組でいつも流れていたものである。CMばかりが頭に焼き付いてしまい、大好きだったはずの番組のほうを自分は忘れてしまった。世は無常。
追記
昔話として読んだこの本の中に、非常にリアルに迫ってきた一節があった。
上記書籍、語り下ろし部分「15『東京漂流』ザ・デイ・アフター」より
八〇年代には案の定、雑誌をはじめとするマス・メディアが非常にコマーシャライズされたね。『東京漂流』やってたころは、雑誌は雑誌のためにあったものだが、現在では大部分の雑誌は広告のためにある。企業が金持ってるということだな。余ってしょうがないからいたるところにばらまいてる。今では何ごとも企業色一色だ。ノンフィクションライターまでが化粧してテレビCFに出る始末でしょ。世も末だ。『東京漂流』でサントリーとぶつかった一件は今思えばこういう時代の前兆なんだね。
ま、これが身にしみるということは、今の自分のリアルというのが毎日働いて銭を稼いでいる体とともにあるのだという自覚があんまりないまま、むしろ世界中に張り巡らされた網の上に存在している、あるいはそのように希望していることを認めてしまったことになるわけで、とりあえず俺はもうだめだ。