せすにっき

日記。2019年1月にはてなダイアリーから引っ越しました。2024年もそこそこ適当に生きたい。

ほめられているぼくはぼくじゃない

ぼくはいつもとっても良い子にしてたよ。
ともだちとけんかもしない、だってともだちいないから。
けんかしたらママがきっとぼくのこと嫌いになるから、けんかしないようにともだちは作らないことにしたんだ。ともだちがいなくても、ぼくはたのしく一人であそべるよ。ママ、ぼくがたのしく本を読んでいるところを見て。
ぼくは学校のせいせきもとてもいいんだ。ぼくまた100点とったよ。ママ見て。テストを返すとき、ぼくはかならずさいごによばれてみんなに「すごい、まただよ」って言われるんだよ。
身のまわりのことだって、食事のしたくや洗たくとか、ママがやってくれること以外、ぼくはきちんと自分でやれる。ママはだって、なにかといそがしいんだから。
そんなぼくのことをママはみんなにほこらしげにおしゃべりするんだ。そんなときのママはほんとうにうれしそうだ。うん、うん、ぼくはママのじまんの息子だよ。
ママはぼくのことべつに好きじゃない。そんなのはわかってるよ。
ママはぼくじゃなくて、ぼくが持ってかえってくる100点の答案が好きなんだ。ママはぼくじゃなくて、ぼくのことを他の人にお話することが好きなんだ。
月日がどんどんたって、僕はおとなになり、ひげも毎朝そらないといけないようになった。ぼくはやがて会社にはいって、ひとりでくらしはじめたけれど、自分のことはちゃんと自分でできるから、ママ、心配いらないよ、だいじょうぶ。人にめいわくをかけないようにちゃんとやっていけるからだいじょうぶ。
だけどときどき、とてもこまることがあるんだ。
会社の女の子にね、「○○くんって仕事できるんだね、努力家なんだね」って言われたんだけど、どういう意味なのかわからないんだ。だって、ぼくが努力家だろうがなかろうがその子にはあんまり関係ないし、だいいちママはそんなこと面とむかってぼくに言わなかった。おとなりさんに「勉強だけは自分からすすんでやってくれて、手もかからないしたすかるわ」って話しているのはしょっちゅう聞いていたけど、ママはぼくに「いい点とったね、すごく勉強したね」なんて言わなかったから。上司の人に「今回は君のおかげで助かった」って言われたこともあるけど、どうしてそんなことをぼくに言うのかわからない。ぼくは別に上司のためにはたらいているわけじゃなくて、自分が生きていくために仕事をしているだけだから、お礼を言われるすじあいもないんだ。そんなぼくにわざわざお礼を言う理由がわからない。
ほんとのこと言うと、ママがぼくのことを、他の人にじまんしているとき、ぼくはほめことばを言われているような気がしなかった。しなかったけど、ママがうれしそうだからうれしかった。
いままで、ほめられているとき、ぼくはほめている人のすぐ目の前にいたことがなかった。ママがぼくをほめるとき、ぼくはそこにいなくてもよかった。ママがほめていたのはぼくじゃなかった。ママはぼくじゃなくて、ぼくが持ってかえってくる100点の答案が好きなんだ。ママはぼくじゃなくて、ぼくのことを他の人にお話することが好きなんだ。でもそんなママのうれしそうな顔を見るのがぼくは大好きだった。
だから、ぼくの大好きなママをさしおいてぼくのことをほめる人間は、ぼくのことをばかにしているか、だまそうとしているか、足をひっぱろうとしているにちがいないんだ。だって他人じゃないか。社会というのはそういうところなんだ。いまもむかしも。
だからぼくは、人にほめられたとき、どんな顔をしていいかわからない。だって他人がどうしてぼくにそんなことを言うのかわからない。ぼくとあんまり関係のない人がぼくがやったことについてうれしいと思う理由がわからないし、ましてやそのことをぼくに直接伝えることの意味がわからない。ぼくのことをばかにしているか、だまそうとしているか、足をひっぱろうとしているにちがいないんだ。
そんなことを考えるぼくはほんとうはきっと困った子なんだ。きっとほんとうのいい子だったら、とつぜん人からほめられたりしても、いぶからないでちゃんと笑顔をかえせるんだ。きっとほめられたこと、お礼を言われたことをうれしく思えるんだ。いや、いい子じゃなくたって、ふつうの人はきっとみんなそうなんだ。おかしいのはぼくだ。ぼくは社会ふてきごうしゃのだめ人間なんだ。だからやっぱりほめられているぼくはほんとうのぼくじゃない。ああ、ぼくはだめ人間なんだ。やっとわかったよ。
おねがいママ、一度でいいから、ぼくの目をみてぼくをほめて。ぼくはだめ人間だけど、いままでよくがんばってきたねって。そうして、ぼくがいつのまにかかかってしまったのろいをといてよ。
 
それでも愛してくれないから刺したのです。言葉なんてやっぱり害悪でしかないのです。