せすにっき

日記。2019年1月にはてなダイアリーから引っ越しました。2024年もそこそこ適当に生きたい。

超わたくしごと・見守るというのはどういうことなのか

「死ねばいいのに」は終わったらしい。そんなこんなをよく事情もわからないまま見かけたのだが、そのあたりの事情とは全く関係なく、かれこれ数年にわたって何バージョンか存在し続けてきた俺ワールドの片隅のひとつのシーンについてここにメモしておく。
あ、そのシーンというのはあくまでも自分の脳内にあったもので、実際の騒動とはまったくリンクしないわけなので、もしもキーワード「死ねばいいのに」をたどってきた方にはなんだこいつは、ってなことになると思うので申し訳ないのですが、これは俺の脳内ワールドについての話なのであしからず。まぎらわしいこと書いてごめんなさい。

  • 人間ってやっぱ死にたくなるときがあるよね
  • でもすんでのところで踏みとどまる、その瞬間って、どんなかんじなんだろう

というのを今までポエームチックに自分のサイトとかに書き散らしたりしてきたわけです俺は。そのときに、必ず俺は「踏みとどまる人を、遠くから見ている自分」という視点で書いてきたわけです。
俺には、月夜に自分でビルの屋上に立って、足の下の遠い地面を見るという、そんな勇気さえもないから、そういう視点しか持てないのだな、と思った。そんでもって、時には、踏みとどまった人を見て「心にあったかい風が吹いた」、とその人の境遇も知らずに勝手に微笑んだり、「飛べばよかったのに」と、自分には決してできないことを人が思いとどまることに対して底意地の悪い目を向けたり、俺はいったい何様ですか。俺にできることは「見ていてあげるから」と心の中でつぶやくだけ、見ていたからどうなんだ、というツッコミであわれにもすっとんでいく、そんな無意味な行為でしかないのに。死にぞこないは俺のほうだ。
でも俺は愚かだから、たぶん、楽しいことを待ち続けながら、つらい世の中をだらだらと生きていくんだと思う。待ち続けられるという状態を、俺は幸せと呼ぶことにする。
そして、そんなことを、というか、そんな人間がいることを、遠い地面を見つめている人がいたら教えてあげようと思うのだが、結局見守るしか能の無い自分の発するそんなつぶやきは、所詮届かない声なのだった。