ウォークマンで音楽を聴きながら家への道を歩く。
今日は疲れたせいかもう何をどう考えても悪いほうへしか思いが向かぬまま。
流麗に響き渡るギターソロの後ろで誰かの低い声が聞こえる。よく聞くとそれは経であり、さらに耳をすますとそれは薄暗い異国の寺院で唱えられる彼らの主に捧げるための歌へと瞬時に変化する。何かを聞き取りその内容を知ろうとするとそれはあっというまに自分の理解できる範囲からスーッと遠のいていくのだ。
でも、この曲が大好きで何度も何百度も聴いている自分が一番よくわかっていることなのだが、そんなバックコーラスは実際にはこの曲では流れてなどいない。そしてためしにイヤホンを外してみても、何も聞こえてはこない。
気のせいだよな、と思い直してイヤホンを着け、歩みを速めると、また聞こえてくる。地の底から湧き出してきて心の中に泥のように冷たく重くたまっていく声たちが。わかっている。これは実際にはイヤホンからも流れてきてはいないし、通りがかったどこかの家から漏れ聞こえてくるのでもない。
頭の中で低く低く、響いているのだ。
人に話したところで、その声が何を意味するのかもわからないし、人と一緒にそれを聞くこともない。自分の言葉はか弱く誰にも届かず、届いたところでそれが何の役に立つというものでもない。
もうかなり昔のことだが、就職活動を終えて、とりたててすることのなくなった学生最後の夏休みを思い出した。
もともと友達のいない人間だったもので、誰かと遊びに行くこともなく。誘われても、忙しいからと断ったり。ほんとは、自分がその人たちの間でどう振舞ったらいいか考えなくてはならないのが面倒だったからだ。
春までずっと続けてきた長期のバイトもやめてしまっていたうえ、来春からは休みのロクに取れない会社で勤めることが決定していた元来怠け者の自分は、短期でバイトなどする気も起きず。
ただ毎日をなんとなく過ごしていた。
その頃の自分は、今と比べたらまだ全然将来への希望とか、未来の展望とか、そういうものがあったような気がする、というか確実にあったのだが、それさえも不確実なものに思えていたのだろう。よく考えたら昔から悲観論者だった。どうせ世界はそのうちノストラダムスるしさ。とか。
自分で物事を終わらせることのできない人間は、世界の終末を無意識に熱望する。
そんなのもきっとあの年齢ならまだ「若きゆえの悩みか、いいねえ」とおっさんが遠い目をして振り返りながら酒の肴にするような、そんな悩みだったのだろう。
とりあえず、一日ゲーセンに入り浸る。
飲まず食わずで10時間、対戦台ではない筐体に陣取る。
CPU相手に一日中。しゃがみ小P×2→中K→大足払い。
ガードキャンセルからEX投げ。隠しコマンド必殺技でフィニッシュ。
人間が作った素晴らしいテクノロジーの映し出す幻影にさんざん遊んでもらって、家路につく。
毎日がその繰り返し。
うーん、マンダム。
思えばやはり今も同じような毎日だ。
ノストラダムス、帰ってこい。