ネギトロ巻、一番搾り。
部屋から歩いて2分のところにあるコンビニに行くと、寿司と名のつくものはいなり寿司しかなかった。いなり死ねと思って駅前に行ったら持ち帰り寿司屋はもう売り切れで閉まっていた。持ち帰り死ねと思って仕方なくスーパーのネギトロ巻を買った。持ち帰り寿司屋の価格設定と比べると500円というのは高い。ぼったくり死ねと思いながらもビールや生食用の甘海老なんかも買い込んで帰宅。
どうして最近自分は簡単に死ね死ねという言葉を周りに対して投げかけられるんだろう(ただし心の中で)、と思ったのだが、物事に対して、好きか嫌いかという個人の心情を表現すること、特に嫌いな理由を説明することが億劫になっていて、ONかOFFか、InかOutか、YesかNoか、という二択のもっとも極端な表現を使って一言で済ませようとしているのではないかと思い至った。つまり「お前なんか嫌いだ」。
それがただの阿呆の我がままの暴走だとわかっているから口には出さないし、「いなり死ね」なんていうのはいなり好きの人にはカチンとくる言葉だろうし、そもそも今生きているわけではない酢飯や大豆製品に対して死ねというのが言葉として間違っているのも理解できる。
嫌いなもの、気に入らないものはみんななくなればいい、という考えがおかしいのも自覚している。例えば戦争をなくすには人類がこの世からいなくなれば解決、地球のためには人間が地上からいなくなったほうがいい、などという考えを持つことが常識的には許されないのもわかる。それは世界平和のために毎日身を粉にして世界中を走り回ったり心を砕いて対話を呼びかける業務に携わっている人や、環境を守るための研究活動に身を投じている人、日々の暮らしの中で気を使っている人たちにとても失礼だということもわかっている。
でも、それならばいったい、何の為に生命というものが存在するようになったんだろう。たとえば高い値段に憤りながらも「ネギトロ巻うめえ」と感動するために、なのであろうか。毎日の幸せを実感するために毎日の絶望を味あわなくてはならないのだろうか。子孫を残し、種として存続していくことが目的だというのならばそれには強烈な違和感を覚える。「運動のための運動」みたいに。
そんなことを考えている自分がいなくなったらもしかして世界が平和になるかも。いや、変わらない。何も変わらない。いてもいなくても何も変わらない。でも少なくとも自分がいなくなったら、時々「人類死ね」とか考える不穏で甘ったれた根性を持つ不良ヒューマンネイチャーの全人類に対する割合が下がるので悪いことではないと思う。
あと、さっきはノーブラで出かけた。誰も気づかなかったに違いない。はっはっは。